著作権法が改正されて、10月から施行されることは、創り手として歓迎すべきことなのかどうか日々考えている。
多くの人は、歓迎すべきことと思うかも知れないが、著作権の在り方を知れば、一概にそうも言えないことがわかると思う。
今回の法改正を受けて、NAVERまとめを作った。
著作権法改正案と海外の著作権の実態とネットや新聞の反応と今後の展望
http://matome.naver.jp/odai/2134047469604249601
映画の著作権を考えた場合、著作権者は製作会社や制作会社にある。監督や脚本家は著作者ではあるけれども、著作権者ではない。だからといって、もちろん違法ダウンロードやリッピングを容認すべきではないのだが、権利者ではない以上、実際の利益がどれくらいなのかということのほうが、俄然問題になってくる。
周知の事実だが、CDやDVDの売上は年々落ち込んでいる。もはや記念品レベルでしかない。
法改正で違法アップロード/ダウンロードが減り、なおかつリッピングも減れば製品版が売れるだろうという目論見は(まさか業界団体も本気で信じているわけではないと思うが)うまくいかないことは、海外の例を見ればわかる。
まとめのほうにヨーロッパの現状も書いたが、まず司法がパンクして処理機能が落ちたという事実。刑罰化により、確かに違法ファイルは減ったが、売上は伸びなかったというデータ。
日本だけ別の道を辿るということがあるだろうか。ましてや、マルチデバイスへと向かっている世界の潮流を離れて、CDやDVDが復権するということは考えられない。
そこで利益を考えなければならないぼくは、今後どうなるかも睨まなければならないのだが、まとめに書いたように、iCloudやSpotify、Huluのような合法的なダウンロードコンテンツへ向かうことが、かなり高い確率で考えられる。日本においても、auやdocomo、NTTといった通信キャリアが同じ動きをしている。
そうなってくると、そういったデジタルデバイス上での著作権と実際の運用を考えなければならないので、スマートフォンやタブレットにコンテンツを配信する際のセキュリティを見てみると、DRMをはじめとするいくつかの処理方法がとられている。docomoの偉い人の話によると、ガラケーと同じ程度のセキュリティをスマートフォンに持ち込むことを狙っているようだ。データを移行することもままならないガラケーのシステムを持ち込むとなると、ユーザーにとっては甚だ面倒だが、大企業が動いているのならしばらくはそういう形になるのだろう。
スマートフォンやタブレットの今後の成長を予測する記事もまとめたのだが、それによると、
スマートフォンの将来の市場規模が大きい10の国は、上位から順に、合衆国、中国、日本、インド、ドイツ、ブラジル、イタリア、フランス、イギリス、そしてロシアだ。
ということらしい。
日本においても早晩、コンテンツ流通の主役はスマフォやタブレットになると思われるので、創り手側に見えてくる将来は、
・著作権者となるために「製作者」になること。
・スマフォやタブレットに配信できるスキームを築くこと。
この2つを実現する必要性が垣間見える。つまり落ち込み続けているDVDを自分たちでリリースするよりも、将来成長するデジタルメーカーとして研鑽するべきで、そのためにはITとの協力や知識も必要となる。
もちろん、映画は「映画館」で観るからこそ「映画」と言える。それは美術品を観るのが美術館で、オペラを観るのはオペラハウスというのと同じだ。
しかし「映画」の著作権的には、いわゆる「コンテンツ」として二次配信、三次配信される宿命にあるのも事実であり、その部分での利益確保が出来なければ「映画館でかける映画」を作ることはままならない。
何十年も前から、映画の創り手は同じことを言い続けてきた。日本を見捨て、アメリカやヨーロッパに渡ってチャレンジする人も少なからずいるし、権利者にならなければならないと理屈ではわかっている人もかなりの数いる。とはいえ、実際にどこを目指すべきなのかを語る映画人は少ない。そしてそれが現在の著作権の在り方の問題でもある。
幸か不幸か、デジタルの雄とも言うべきゲーム業界が、どんどん右肩下がりになってきている。合併して巨大化する道もあるが、テレビをやめて黒字化した家電メーカーもあるように、ゲーム作りをやめて周辺事業に転換するという道をとる会社もあるだろう。もしかしたらグリーやモバゲーが、プラットフォームを活かして実写配信に乗り出すかも知れない(実際噂はある)。エイベックスに出来て彼らに出来ない理由はない。そのとき、彼らの論理に付き合える知識があるかどうかが、求められる。
映画は総合芸術である。綜合とは何を指すか。かつてトーキーになった時代、創り手は音声の知識を持つ必要があった。カラーになった時代には、色彩に関する知識を、CGが台頭したときも、フィルムからデジタルへ変化していったときも、創り手は常に新しい知識を吸収する必要があった。それは、新しい論理との出会いであり、新しい技術との格闘の歴史だ。テレビにしたってDVDにしたって、そのように格闘して、映画の道を広げてきたのだ。