2011年作品のゾンビ時代劇が漫画になりました。 "EDO OF THE DEAD" COMICS TRAILER (by...





2011年作品のゾンビ時代劇が漫画になりました。


"EDO OF THE DEAD" COMICS TRAILER (by luluie)






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大手と同じ道を歩むことが若手映画人にとって幸せなのか?

15日にクランクインするゾンビ映画がある。




これは短編ではなく長編でもなく中編と言うべき、50〜60分の作品なんだけど、16ミリで撮影してデジタルで編集という今時のやり方でいかにも映画作品、という感じがするものの、実はこれ、京成小岩に誕生した新築アパートの「コンセプトPR映画」なんです。


新築の物件使ってゾンビモノ撮るというのは、まともな映像制作会社や広告会社はやらないだろうし、そもそもPRするのに苦労して映画を作ることもないでしょう。


でもね、だからこそぼくの出番があるわけで。


あらゆる業界において、勝ち残るのは1位と2位だけで、あとは淘汰されると言われていますね。


生き残るためには付加価値こそが重要ですが、特に市場規模の大きい不動産関係の世界は、1%の人が興味を覚えれば100億円くらいは売上げが立つそうで。


大手と張り合っても仕方がないし、大手が王道を行くからこそ、特徴ある付加価値が生きてくる。


映画というのは、今後そういう道も模索していくべきだと、ずっっっっっっと思ってるんだよね。


CMは15秒とか30秒と相場が決まってる。


PR映像だって、長くても10分程度でしょ。


だけどそれらが流れる媒体の出稿料金の高さと言ったら。


一秒単価を考えたら、映画の方がよっぽど良い。


新聞に出稿したり、テレビCMを流すよりも、映画を作れる方が信用度高くなるんじゃない? っていうのが、そもそもの発想だったわけですが、実際、映画館に顧客を呼んで、映画見てから営業トークした方が、1%の心を掴むのは早いと思うんだ。


そしてこの仕事が成功すれば、もっともっと売上げの大きい会社へも乗り込める気がする。視聴率を信じていない経営者ってのは、かなり多いからね。


だってね。


CM枠を買うよりずっと安い値段で、映画館のスクリーンを一週間借りられるし、CMを作るのと同じくらいの予算で、映画が撮れちゃう時代ですからね〜。多くの人はまだ、映画を作るのには多大のお金がかかると思っている。それは、確かに、かかりますよ。でもその金額は、映像による宣伝広告費としてみれば、割安なわけです。



実は映画製作というのは全世界的に二極化していて、一つはスター総出演のメジャースタジオ映画。もう一つはその100分の1以下の予算で作られるアート系、独立系────という言い方ももう古いけど、要するに非メジャー映画。昔はこの中間地点というものがあったけれど、いまは、その中間地点の作品がほとんどといって良いくらい見向きもされない。



スピルバーグが「アメリカ映画は超大バジェットの映画だけが製作されるようになり、それ以外はテレビのオンデマンドで流れるようになるだろう」とコメントしていましたが、そういうことなわけです。


でもアメリカ映画の市場規模は1.5兆円ですし、ケーブルテレビやオンデマンドテレビの発展からしても、日本よりはマシですね。


一方日本映画は製作本数も興行収益も中国に抜かれ、10年後はどうなっているかわからない。テレビの視聴者数も減少傾向だし、ネットの配信が流行っているかというと……まだまだですよね。


じゃあ東宝以外の会社はどうするんですか? 500万〜3000万円程度の予算で3年に一度なんとか映画を撮るなんていうやり方で、粗利をどれくらい取れるんでしょう? 無理でしょ。ランニングコスト減らして、過去の権利を運用してなんとか生き残るのが関の山でしょ。地元のTSUTAYAなんかこの連休、DVD5本レンタル100円ですって。


映画の価値ってそんなもんじゃないでしょ?


────というお話。


だけど、映画のプロデューサーさんたちとお話ししても、こういうことを話せる人って本当に少ないね。


まあ、脚本がわからない、機材を知らない、ワークフローを語れない、そういう人が「製作者」名乗ってるんだから、しょうがないかなと思う部分もあります。




人を育てる余裕もないし、業界を変革していこうという気概も持てる状況じゃないですしね。


だから結局、1位と2位の争いに巻き込まれ、淘汰される運命にあるんでしょう。



若手と言われる映画人は、数年後か数十年後か、その大渦の様子を中で見るか、外で見るかの選択に迫られる。




中に飛び込んで渦ごと消し去るという大技にでる人がいればいいけど、まあそうはならないでしょうね。







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伝統文化、伝統工芸の後継者を育てるために考えておくべきこと。そして映画の継承について。

一般社団法人「日本伝統文化後継者育成協会」発足のパーティが六本木ヒルズで行われて、全日本刀匠会の理事に誘われて行ってきました。


全日本刀匠会とは、昨年、京都在住の澤田英之助さんによる手切ヤスリ技術の保存映像制作(文化庁)の発注を受けて以来付き合いがありますが、EDO OF THE DEADの卒塔婆剣を日本刀の制作技術で作りたいというオファーを受けていて、そういう繋がりでなにか良い縁があるかなと誘われた次第です。手切ヤスリについてはそれはそれで深いものがあって語りたい部分が多いですがそれは今回はおいておくとして、伝統文化や伝統工芸は、縦割り社会ですから、それぞれの師匠弟子筋の交流はあっても、各文化同士で横の繋がりはあまりない、というところに目を付けて、横断的に交流を図って共同で後継者を育てていこうという趣旨が、この社団法人の存在意義とのことです。


まあ、それら各文化の本物の技術を横断的に評価紹介できるキュレイターの存在が見えないことが欠点と言えば欠点です。また物作りを支える道具職人の後継者も育てなければなりませんが、そこも欠落しています。あまり知られていませんが、日本の職人技が評価されているのは、職人が使う道具を作る職人が優れているという理由もあります。先述の手切ヤスリもそうで、手で打つ以上、この世に一つとして同じヤスリは存在しませんし、使用する目的に応じて微細な修正を加えつつ道具が作られます。そうした技術がほとんど継承されぬまま、経済成長だけを目指して過ぎてきたのが現代日本なわけです。


プロを一人育てると言うことは、そのプロを支えるプロも育てなければならない。そのあたりの詰めは甘いので、細かいことを決めるよりコンセプトだけで突っ走っている印象です。経産省のクールジャパンプロジェクトに乗っかって、安倍政権が好調な内にとりあえず発足させたというのが正直なところかもしれませんが、しかし、どんな形にしろ、伝統文化や工芸品が守られていくことは評価すべきです。


その後刀匠会の面々と長々交流してきましたが、日本刀に対する一般認識や精神教育の普及を行っていかないとどうにもならないように感じました。


ビジネスにして行くには注文を受けて制作して納品するというだけのやり方ではもう難しいでしょう。美術品として、絵画や写真、オブジェと同じようにレンタル展示業務を行ってみるとか、海外からの発注をワンストップで受注できる組織を結成するとか、不動産会社とタイアップして和建築と日本刀家具をセットで販売していくなど、他業種では当たり前に行っている作業をプロデュースしていく人材も必要でしょう。


さて、ここで「日本刀」を「映画」に置き換えたときに、大して違いがないことに気付くべきです。そして日本刀よりも映画の方が、日本オリジナルとしての価値は弱いことにも。


それはつまり、TPPが始まったとして、日本刀が海外に輸出されることはあっても、海外から安い日本刀が流入してくることは絶対にない。日本刀の技術は日本独自のもので、そこが映画と違う。どちらも斜陽で、産業という皮を被ったアートに過ぎないけれども、アートとしての個性は、日本刀に軍配が上がってしまうので、「うーん」と考えこんでしまいました。そして、生活や将来のことなど考えずひたすら良いものを作ることに専念する姿勢、それは現代ではマイノリティだけれども、千年受け継がれてきたものの核はとんでもなくシンプルで、強固なものであると実感しました。


銃刀法の誤解で、日本刀の所持は禁止されているように思われていますが、手に入る日本刀は登録証が必ずあるので、所持していても振り回さなければ問題ないのですが、そういうある種「意図的なバイアス」も是正していく必要がありますね。


包丁は怖くないが日本刀は怖い、という感覚は、要するに美的感覚の欠如です。日本刀の美しさや精神性の認知は、後継者の育成とともに大切な柱になるでしょう。


それはとりもなおさず、教育機関の改革が必要です。しかし教育機関は保身の塊なので、そこをどう突き動かしていくか。そのあたりが、この社団法人や全日本刀匠会の今後の課題になるように思いましたし、とりもなおさず映画業界の課題でもあります。なぜかと言えば、映画は総合芸術なので、映画の見方を知ることは、他分野の芸術への入口だからです。


いま日本の教育機関で映画の見方を教えていますか?ストーリー分析や映画の歴史、技術論などは教えても、美的感覚を養ったり、映画全体を通して突き動かされる感性については、個々人の趣味資質にゆだねられています。


映画好きだと公言するような人々でも、多くは映画の断片しか見ていないでしょう。芸術鑑賞が自分との対話だとするならば、見方を知らないと言うことは精神の幼稚さを表していると言えるでしょう。


ぼくは娘にそうなって欲しくはないし、だからなんとかしたいと思っているのです。ぼく自身、子どもの頃はそんな見方をしていなかったから、感性という点では出遅れてしまったと思っているので、創り手になってようやく見えてきたそうした「真価」を、とにかく一番身近な「未来」に伝える努力はしていきたい、という風に思っています。




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ジョシュア・ベルの考察:美しさについて

ジョシュア・ベルというバイオリニストの話が出回っていて読んでみたのだけれど、美しさというものは、その大部分は美しさを感じられる空間と状況によってのみ認識されるのであって、どのような状況でも美しさをそれを認識できる人というのは、はっきりいってどこかおかしい。

 

ちゃんとした劇場で、ちゃんとした音響システムを使った演奏を一枚一万円のチケットに換算することは妥当だが、喧噪の駅で音楽に興味のない人々を相手に演奏してもその価値は一万円には及ばない。なぜならそこは音楽とは関係のない場所だから。

 

これを映画に置き換えてみよう。

映画は映画館で観るから1800円というチケット代をいただける。

DVDは映画のコピーに過ぎないし、創作者が望む映画の価値をキチンと表現できていない。ブルーレイにしたって同様だ。映画は映画館で観るからこそ、意味がある。

知る人ぞ知る世界の名作映画だからといっても、立ち飲み屋でプロジェクター上映したものを誰が「傑作だ」と思うだろうか。

いや、傑作ではいけないのである。

勿論映画に携わる人間であれば、その上映を観てピンと来るものがあるかもしれない。

それは、デザイナーが、街中にそれとなく紛れ込んだ秀逸な意匠を発見して興奮するのと同じだ。

場末の立ち飲み屋で、ひっそりと最高級フォアグラの焼き串を出したとして、料理人以外にその価値に気付く人などほとんどいないだろう。

 

我々は美しいモノを見逃しているが、そんなことは当然である。

 

では聞くが、世の中に存在する美人のすべてを、見届けることができるのか。

無理だ。

美人の価値観は人それぞれ違う。

 

美しさは、万人に共通ではないのだ。

 

だが重要なことは、美しいモノは、確かに存在していて、誰かに発見されるのを待っているということだ。

逆に言うと、発見されるまで、それは「美」ではない。

「美」とは、鑑賞者がいて初めて成立する。

 

いかに世界最高の才能の演奏であろうと、それがそうと認識されなければ、美しくないのだ。

 

映画監督が映画を諦める時

音楽家・佐久間正英さんの「音楽家が音楽を諦める時」という記事と、漫画家・佐藤秀峰さんの「漫画家が漫画を諦める時」という二つの記事を読んで、創作の世界に押し寄せる予算圧縮の並はもはや止めようがないことを実感しています。

映画の世界もまったく似たようなものです。もしかすると、著作権というモノをガッツリ会社に握られている分、音楽や漫画よりも状況は酷いかもしれません。まあ、どっちが酷いかなどという夢のない話をしても仕方ないことなので、二つの記事に倣って、数字で考えてみたいと思います。

 

ぼくは映画監督・脚本家として確定申告をしている身ですが、映画監督は本来映画を監督する人物であり、脚本家とは全くの同一ではないです。しかし、現実問題として、脚本も書かなければやっていけないという事情もあり、ぼくが書き、ぼくが撮るというスタイルを、この10年で確立してきました。

ぼくを取り巻く10年の環境変化を思い出しつつ書いてみますと、デビュー作は単館公開のホラー映画で予算は400万円でした。90分程度の長編ですが、中身は5話から成る短編オムニバスで、この予算にしてはキャストも多く、場所も最低五カ所(5話なので)必要だけれども、撮影日数は5日というスケジュールでした。この作品のぼくのギャラは、監督、脚本、編集まとめて30万円くらいだったと記憶しています。これが高いか安いか、考えてみてください。

5日で30万なら良い商売だけれども、映画監督の仕事は、現場の日数だけでは計れません。

映画制作には大きく分けて三つの節目があり、一つ目はプリプロ(準備)、二つ目はプロダクション(制作)、三つ目がポスプロ(編集仕上げ)という区切りです。建築において、設計事務所が最初から最後まで全て監督管理するように、映画監督は、この三つの節目に全て参加し、芸術面での全面的な責任を負います。ひとことで言えば「クオリティ管理」ですね。

上の例では、プロダクション段階が5日と書きました。ではプリプロは何日でしょうか。プリプロとは、企画開発、シナリオ執筆、ロケハン、ミーティング各種、オーディション、リハーサルなどですから、とても一週間やそこらでできるものではありません。もう10年ほど前のことなのでうろおぼえですが、シナリオ完成までが直しも含めて2週間、ロケハンが2日、ミーティングが1週間程度、オーディションは3日、リハーサルが1日だったと思います。オーディションでは200名以上に会いました。ざっと見積もって約30日ですね。

ポスプロは何日でしょうか。編集も兼任しているので、仕上がるまでは毎日仕事です。編集ではまずざっくりと繋ぐ「粗編」をして、「ラッシュ」と呼ばれるプレビューを行い、修正点や音楽、効果音の打ち合わせをし、それぞれ持ち帰って数日後にまたラッシュをして、ということを繰り返します。これも約30日かかりました。これは決して多い日数ではありませんが、予算を考えればもっと詰めても(今思えば)いいところです。なにしろ初めての監督作品なので、勝手もわからず苦労した上、スタッフ全員が20代で技術的にも未熟で時間がかかったことも影響しています。

まあそんなわけで、65日を費やして収入が30万ですから、日雇い労働より酷いですよね。もちろんデビュー作ですし、夢を叶えるための布石ですし、若いから我慢できますよ。でもここはあえてもっと突っ込んでみます。

脚本を書くのには、何が必要でしょうか。10年前とは言え、原稿用紙に書くなんてのは有り得ませんでしたから、パソコンとソフトが必要です。ぼくが当時使っていたのはPowerMac G4でした。これはデビューする少し前に辞めたバイト先に転がっていたのを7万円で譲ってもらったものでした。ソフトは同梱していたモノを使いました。

打ち合わせに出かける交通費、コレは自腹です。電話関係、これも……自腹でしたね(本当は精算して然るべきなんでしょうけれど、そんな話は出なかったのでわかりませんでした)。

編集に使う機材は、先ほどのPowerMac G4にFinalCutPro3だったか4だったかを入れてました。かなり高いソフトだったんですよ、貧乏映画青年が買うには。10万円くらいだったかな。もちろん、モニターやDVデッキも必要ですから、買いそろえます(中古ですが)。すると、どうしたってプリプロからポスプロまでで20万くらいの先行経費がかかってるわけで減価償却とかそういうことは抜きにしてキャッシュだけで考えたら10万しか残りませんね。これで生きていけるでしょうか。もちろん無理です。

ではどうするかと言えば、バイトするか、別の作品を掛け持ちするか、どちらかです。ぼくはバイトはしないと決めていたので、かなりの数の掛け持ちをしました。作品にとって良いか悪いかは論じるまでもないですが、ぼくは生活するためにこの仕事をしたいと考えていたので、コレは修行だ、勉強だと自分に言い聞かせて、1か月半に一本の作品を撮っていました。

まあ、ぼくみたいな、何の賞レースにも参加していない、映画学校出でもなく、人脈もカネも実績もない馬の骨にとっては、この程度のスタートが当たり前でしょう。ぼくの場合は26歳の時に「水霊」というちょっと大きな映画を撮らせてもらえたのでまだマシな方だと思います。「水霊」があったから、同じ頃にテレビドラマの演出・脚本(「心霊探偵八雲」「のぞき屋」)もやれたわけで、「水霊」がなければ、未だに同じようなレベルの(貯蓄もままならないその日暮らしの)生活をしていたでしょう。

一般論で言うと、監督のギャラは総制作費の3%程度と言われています。1億円の制作費であれば300万円ということのようです。もちろん、キャリアやネームバリューなどで変わってきますので、若手はそう簡単ではないでしょう。半年で一本の作品を撮れたとして、二本でようやく600万円ですが、年に二本、1億円レベルの作品を撮れる監督なんてそうそういません。5億円レベルの作品を3年に一本撮れれば良いほうではないでしょうか。さて、この不況下、何人いるでしょうか……?

このように考えていくと、冒頭で書いたように脚本を書かなければ映画監督として生きる道は皆無です。監督と脚本をやって初めて、印税で3%ちょっとの報酬をゲットできます。DVDを5000円として、10万本売れてようやく、5億円の制作費における監督のギャラと同じ程度の報酬を貰えます。ここまでくれば、監督としてはかなり成功者です。

しかし、映画はヒットせず、DVDも売れなければ、次のオファーも遠のくし、印税も入らず、前の仕事で貰った報酬を大事に使って慎ましく暮らしていくしかないわけです。そして厳然たる事実として、毎年10億円以上の興収を叩き出す作品は、年に40本もないわけです。400本以上作られている日本映画の中で、10%しかヒットしていないとなれば、オファーは必然的にその10%の人に集中するので、映画監督はどんどん淘汰されていきます。やっと撮れた時には現場勘が戻ってなかったりして大失敗ということもあります。

ましてやいまや、有名大学を出て頭も良く社会性も高い「テレビ局員ディレクター」が大活躍です。テレビ局というバックがいるから、制作面での失敗を考えなくて良いし、広告効果も高いし、会社から給料をもらっているし、ということで、純粋な映画監督は太刀打ちできませんね。学歴も低い、頭は固い、社会性は乏しい、さらに貧乏という「クリエイター」と話したがる社会人なんてほとんどいないでしょう。それらをひっくるめても余りある才能を持っているのでなければ。しかし才能というものは、優秀なキュレイターが世間に紹介して初めて知れ渡るもので、残念ながら映画には有能なオタクはいるけれれども優秀なキュレイターというものはほとんど(全然とは言いませんよ!)いませんので、紹介される才能も限られてきてしまうのです。

さらに輪をかけて悲惨なのは、DVDがまったく売れません。レンタルもダメ、セールスもダメ。今あるコンテンツは今リリースしておかないと、来年は7割(3割)減とか5割減とか、それくらいのレベルで減収しているというのは、もうそこで印税を期待しても意味がないということです。

海外に売る、という声もありますね。でも海外で買ってくれる金額は、監督のギャラ程度かもっと低いですし、海外販売の契約が別になっていて、印税が貰えないケースもあります。

そんなところへ「著作権法改正」がドーンと来て、みなさん益々DVDとか買わなくなるわけですよね。残る手段は配信ですが、配信で売るためには広告戦略ですよ。それが出来る作品は自ずと大手のヒット作品ですから、若手が配信でガッポリするには超有名女優の初脱ぎとかじゃないと難しいですよね。でもそんな作品ばっかり撮れるわけじゃないし、一回きりじゃ意味ないです。

そんなわけで、「映画監督は食えない」という図式が囁かれるわけです。

本当に映画監督だけで食うのは至難の業です。クールジャパンとか言って「日本製コンテンツ」を海外に売り込もうと経産省が躍起になっていますが、これは、今ある資源を海外で再利用しようとしているだけのことです。将来傑作を生み出すかも知れない若手や、デビュー前の新人をこの業界につなぎ止めておく方策はほとんどしていません。申し訳程度のコンペや賞金では、なんの意味もないのです。

国が大変な時に、税金投入して映画の保護かよ! という意見もわかりますが、ハッキリ言って日本が海外と戦えるものってもう「作品」しかありません。そして今ある作品資源を売り払っていくだけでは、必ず破綻します。ヒットメーカーもいつかは枯渇し、死にますし、場合によってはどこかの国に招かれてこの国に一銭も落とさなくなる可能性も否定できませんよね。そのとき国内の才能が疲れ果てていれば、もう何も出来ません。

現実の話をしますと、今の日本映画界の実情としては、大規模作品(上の40作品になり得るような規模)か、1000万円以下の予算規模の作品の二極化が進んでいて、これはもう止まりません。

1000万円以下というか、ぼくがデビューした頃のような予算ですね。400万程度で長編を撮って、DVDも売れない、配信もダメ、映画館は単館のみ、では、回収して儲けるなんて神頼みです。神頼みで人の生活を支えられるわけがないので、どんどん創り手はジリ貧になって、別の作品を抱えながら忙しく疲れ果てるか、「映画監督とか言ってるけど本業はバイトでしょ」みたいな陰口をたたかれる身になるか、霞を食って生きていくか、生活保護をもらうか、そんなところしかないわけです。

 

映画は総合芸術ですから、家の中にジッとして良いものができるものではありません。いくら貧しくても、音楽を聴き、絵や写真を見、芝居を愉しみ、漫画や小説を読み、人に会って話をする。そういう経験の中で映画的な創造力を培い、蓄えていくので、これらの「経費」を日々のお金の中から捻出しなければなりません。映画会社はこういうものを一切出しませんし、ギャラにも反映されていませんし、コレは自営業者の研究開発費なので、どうにかするしかないわけですが、貧乏すぎると世界が狭まるので、作る世界観も狭まるし、独りよがりで共感しにくい映画が増えてきてしまうのです。

優秀なキュレイターに支えられた優れた「自主制作映画」もありますが、ほとんどの「自主制作映画」は、そのようなものです。

 

「好きなことしてるんだから、別に良いんじゃね?」というご意見もありますよね。わかります。確かにそうです。でも、好きだから辛いんですよ。嫌いな仕事でこの状況なら、すぐに辞めてますし、好きなことと業界事情はまったく別の問題です。

佐久間さんの記事にもありましたが、ぼくも「小手先」で作品を撮ることが増えました。自分としては「小手先」としか言いようがないくらい、熟成する時間も余裕もない。年に一本、思いを込めた作品を撮れればいいやっと思えてしまうようでは、少し考えなければなりません。

 

 

 

 

 

 

著作権法改正と、創り手の今後を考えてみよう。

著作権法が改正されて、10月から施行されることは、創り手として歓迎すべきことなのかどうか日々考えている。

 

多くの人は、歓迎すべきことと思うかも知れないが、著作権の在り方を知れば、一概にそうも言えないことがわかると思う。

 

今回の法改正を受けて、NAVERまとめを作った。

 

著作権法改正案と海外の著作権の実態とネットや新聞の反応と今後の展望

http://matome.naver.jp/odai/2134047469604249601

 

映画の著作権を考えた場合、著作権者は製作会社や制作会社にある。監督や脚本家は著作者ではあるけれども、著作権者ではない。だからといって、もちろん違法ダウンロードやリッピングを容認すべきではないのだが、権利者ではない以上、実際の利益がどれくらいなのかということのほうが、俄然問題になってくる。

 

周知の事実だが、CDやDVDの売上は年々落ち込んでいる。もはや記念品レベルでしかない。

 

法改正で違法アップロード/ダウンロードが減り、なおかつリッピングも減れば製品版が売れるだろうという目論見は(まさか業界団体も本気で信じているわけではないと思うが)うまくいかないことは、海外の例を見ればわかる。

まとめのほうにヨーロッパの現状も書いたが、まず司法がパンクして処理機能が落ちたという事実。刑罰化により、確かに違法ファイルは減ったが、売上は伸びなかったというデータ。

日本だけ別の道を辿るということがあるだろうか。ましてや、マルチデバイスへと向かっている世界の潮流を離れて、CDやDVDが復権するということは考えられない。

 

そこで利益を考えなければならないぼくは、今後どうなるかも睨まなければならないのだが、まとめに書いたように、iCloudやSpotify、Huluのような合法的なダウンロードコンテンツへ向かうことが、かなり高い確率で考えられる。日本においても、auやdocomo、NTTといった通信キャリアが同じ動きをしている。

 

そうなってくると、そういったデジタルデバイス上での著作権と実際の運用を考えなければならないので、スマートフォンやタブレットにコンテンツを配信する際のセキュリティを見てみると、DRMをはじめとするいくつかの処理方法がとられている。docomoの偉い人の話によると、ガラケーと同じ程度のセキュリティをスマートフォンに持ち込むことを狙っているようだ。データを移行することもままならないガラケーのシステムを持ち込むとなると、ユーザーにとっては甚だ面倒だが、大企業が動いているのならしばらくはそういう形になるのだろう。

 

スマートフォンやタブレットの今後の成長を予測する記事もまとめたのだが、それによると、

スマートフォンの将来の市場規模が大きい10の国は、上位から順に、合衆国、中国、日本、インド、ドイツ、ブラジル、イタリア、フランス、イギリス、そしてロシアだ。

ということらしい。

日本においても早晩、コンテンツ流通の主役はスマフォやタブレットになると思われるので、創り手側に見えてくる将来は、

 

・著作権者となるために「製作者」になること。

・スマフォやタブレットに配信できるスキームを築くこと。

 

この2つを実現する必要性が垣間見える。つまり落ち込み続けているDVDを自分たちでリリースするよりも、将来成長するデジタルメーカーとして研鑽するべきで、そのためにはITとの協力や知識も必要となる。

 

もちろん、映画は「映画館」で観るからこそ「映画」と言える。それは美術品を観るのが美術館で、オペラを観るのはオペラハウスというのと同じだ。

 

しかし「映画」の著作権的には、いわゆる「コンテンツ」として二次配信、三次配信される宿命にあるのも事実であり、その部分での利益確保が出来なければ「映画館でかける映画」を作ることはままならない。

 

何十年も前から、映画の創り手は同じことを言い続けてきた。日本を見捨て、アメリカやヨーロッパに渡ってチャレンジする人も少なからずいるし、権利者にならなければならないと理屈ではわかっている人もかなりの数いる。とはいえ、実際にどこを目指すべきなのかを語る映画人は少ない。そしてそれが現在の著作権の在り方の問題でもある。

 

幸か不幸か、デジタルの雄とも言うべきゲーム業界が、どんどん右肩下がりになってきている。合併して巨大化する道もあるが、テレビをやめて黒字化した家電メーカーもあるように、ゲーム作りをやめて周辺事業に転換するという道をとる会社もあるだろう。もしかしたらグリーやモバゲーが、プラットフォームを活かして実写配信に乗り出すかも知れない(実際噂はある)。エイベックスに出来て彼らに出来ない理由はない。そのとき、彼らの論理に付き合える知識があるかどうかが、求められる。

 

映画は総合芸術である。綜合とは何を指すか。かつてトーキーになった時代、創り手は音声の知識を持つ必要があった。カラーになった時代には、色彩に関する知識を、CGが台頭したときも、フィルムからデジタルへ変化していったときも、創り手は常に新しい知識を吸収する必要があった。それは、新しい論理との出会いであり、新しい技術との格闘の歴史だ。テレビにしたってDVDにしたって、そのように格闘して、映画の道を広げてきたのだ。

 

 

この曲のタイトルや元ネタを教えてください。

clock_alerm.m4a Listen on Posterous

引っ越し作業につき、押し入れを整理していたら、物心ついたときからぼくを起こし続けてくれた赤い目覚まし時計が出てきた。 電池を替えたら動いたので、懐かしいアラームメロディを数十分聞き続けた。 尋常じゃない寂しさに見舞われて大変だった。 それがこの曲。 この曲について知っていることがあれば、教えて欲ください。

 

[追記]

投稿がツイッターでRTされたおかげで、わずか1時間のうちに情報が寄せられ、この曲だと確信しました。@shiotuさん、ありがとうございました。

ゾンビ時代劇映画「EDO OF THE DEAD」がメディアで取り上げられました。

京都映画・映像企画市という企画コンペで勝ち取った「パイロットフィルム制作費」を使い、今年の二月にゾンビ時代劇を撮影しましたが、そのときに京都新聞、読売新聞、産経新聞、毎日放送といったメディアから取材を受け、徐々に発信されています。

Edo_yomiuri

[読売新聞記事]

Edo_kyotonp
[京都新聞記事]

Edo_sankei

[産経フォト]

 

「EDO OF THE DEAD」は90分の長編を予定していますが、現在の所15分の短編映画です。京都で二回、東京で一回試写を行いました。映画会社や関係者にDVDやブルーレイを送り、出資営業を行っている現状です。

漫画化、ゲーム化への動きも始めています。

さて、どうなりますか……

 

 

 

 

中野ザ・ポケット「日本の問題」観劇。アンケートに代えて。

「日本の問題」(12/04 13:00-17:00)を観劇。8劇団が独自に切り込んだ「日本の問題」を短編劇にし、オムニバス形式で上演した意欲作であった。

 

思えば「日本の問題」とはなんであろうかと考えたときに、社会的な意味での問題点と、個人的な意味での問題点と、どちらがより作家にとって重要であるかという点は興味深く見守る必要があるだろう。全共闘世代の考える問題と、高校生の考える問題は違うだろうし、主婦の思う問題と、OLの思う問題も違うだろう。それは、どちらが高尚でどちらが低俗かということはなく、どちらも等しく、重要な問題である。ただ、問題を抱える当人の立ち位置が違うだけだ。そして、それを受け取る者(この場合は観客)が共感できるか出来ないか、それだけだ。

つまり「問題」とは、多くの場合、それが認識され、共感されたときにはじめて「問題」となる。一つどうでも良い例を出すと、ぼくはなぜか遅刻癖があるのだが、遅刻をするつもりがなくても遅れてしまうことがよくあるのだ。どういうことかと言うと、定刻通りに電車が出なかったり、事故が起きたり、不慮の事態によってそうなるのだ。それを見越して移動するという簡単なことをしないわけではなく、そうした場合でも、結果的に遅れるということが、あるとき何度も続いた。ぼくにとってそれは大きな問題であったが、遅れられた待ち人の方にしてみれば、問題なのはぼくの時間管理のほうであろう。もっと簡単な例で言えば、花粉症が問題になるのは、花粉が飛ぶ時期に、花粉のアレルギー反応を起こす人間にとってだけである。薄毛の問題も同様だし、視力問題もそうだ。だが、該当しない人にとっては、一生その問題点はわからない。

この例は些末な「問題」だが、これが在日問題だったらどうだろうか。人種だったらどうか。宗教や経済格差だったら? 言うまでもなく、世の中には多種多様の問題が山積している。重要なのは、誰が、その問題を提起し、人々に認識させ、共感させることが出来るか。結局はその点にかかってくるとぼくは思っているのだが、ではその「誰」とはどこのどいつを指すべきなのか。

この公演は、それを劇作家に担わせた。となればあとは、観客が彼らの提起した問題を認識し、共感するか否かだが、それが成功したかどうかの判断を、あるいは失敗したのではないかという判断を、誰ができるのだろうかと首をかしげてしまうのである。

 

そもそも、ぼくがこの日の観劇を選んだのは、8劇団全ての上演を通して観たかったからだが(仕事の都合でこの日しか観られなかったという縁もあるけれど、それでも)その狙いは的を射ていた。Aチームに4劇団、Bチームに4劇団という編成で連日入れ替わり立ち替わり上演をしていて、その運営においても多少の興味を覚えてはいたものの、あえて大上段に「日本の問題」と銘打つからには、8つもの劇団が織り成す芝居のおのおのは勿論のこと、8つを一つの時間軸として観た場合、その一貫性の中になにか演劇的な、それでいて思想的に明確な「問題」が垣間見えるのではないだろうかという期待があった。

しかし、結論から言えば、タイトルより大きな意味はなかった。各論は別として、総論で言えば、この公演において「日本の問題」は、観客の知っている以上のものはなにも提起されなかったし、解決もされなかった(唯一、プロデューサー松枝氏の率いるアロッタファジャイナは「問題解決提案」をしたが、本人も言っておられたように論文的解決法であり、演劇という「言葉と行動」によるアプローチではうまくいっていなかったように思うので、あえてそう言わせてもらう)。

勿論、311を経た今の我が国で、震災の影響を抜きに物語れないのは理解できる。ぼく自身、震災直後は若干の躁状態で、何か出来ることを探して精神の安定を図る毎日であった。その結果、ソースのハッキリした有用な情報を探して伝えるという行為に勤しんでいたのだが、それがどれだけ役に立ったかはわからないし興味もない。ただ、ぼくはぼく自身のために、もっと言えば、ぼく自身の行為が確かに世の中に届くことを確認するために、いくつかの有用な情報を拡散していたに過ぎない。だから、2011年に考えるこの国の問題においては、震災を中心に据えても批判をするに当たらないとぼくは考えてしまう(自省も込めて)。

しかしながら当然「問題」は震災に留まらない。さきほども書いたように、多種多様な問題を過去から現在、そして未来に至るまで抱え込んでどうにもならなくなっているのがこの国である。それに対して各作家が何を思い、何を考え、何を表現し、またそれらがどうまとまって、あるいはまとまらず、化学反応を起こしたり、拒絶し、反発した衝撃の末に光ったスパークから突如生まれ出る新たな「問題」──ぼくはそうした「問題」こそが、演劇的な提起だと思うし、表現でしか発見できない普遍的なテーマに関わると思うのだ。ところが、8つの劇が集合して見いだされたものは結局のところ「多様性」という一言で片付けられるような、表面的な問題でしかなかった。そしてその「多様性」の指し示すものは何かと言えば、絶対的正義の欠如である。それが、成否の判断をする者がいない、とぼくが首をかしげる理由であるが、むろん、それが悪いと言うことではない。ただ、ぼくにとっては残念だったということだ。

と言いつつも、そんな残念などは、ぼく個人の勝手な思い込みや期待感に裏打ちされたものであり、言うなればぼくの感性の問題なので、それによって公演を失敗と断ずるつもりは毛頭ない。テーマの話を別にすれば、演劇としてはこの公演は興味深く、面白く感じられたことは間違いないのだ。気になる役者も多くいたし、気になる演出家、劇作家も発見できたことだし、一演劇ファンからしてみれば、収穫の多い公演であったことは明記しておかねばなるまい。特に記しておくなら、劇作家としては「ろりえ」の奥山氏は人間的にもセンス的にも怪物の可能性を秘めているし、「Mrs.Fiction」に出演した山口オン、「アロッタファジャイナ」出演の西村優奈、「JACROW」出演の藤沢玲花などの女優陣は個人的に、将来の映像作品に起用したいと思えるほど面白い人材であったと思う。だがそういった評価は別にして、あえて大上段に構えたこのタイトルとテーマを考えずに、この公演を消化することはぼくにはできないのだ。

 

 

 

 

自主映画だって映画だぜ、その辺の大作より凄いぜ、、、と言うなら、その辺の大作なみの待遇もなければ不幸だよ。


「へんげ」という映画がネット上でとても評判になっている。試写会の案内などは届かないので未見だが、映画単体がいかに傑作であろうと、この業界の仕組みが変わっていかない限りは、不遇な若者がまた増えるだけであることを、先輩や同僚の映画人はもっと真剣に考えた方がいいのではないか。


自主映画で、無名キャストで、中編で、という映画が、一般人に届くことは非常にまれで、届く機会を(「へんげ」のように)得たとしても、一般人が年に映画を見る回数は、驚くほど少ない。
一般人に届かなくてもいい、というのであれば話は別だが、そんなことを言う人の映画評などアテにはできないので、つまりは傑作であるならなおさら、一般人に届くべく、策略を巡らせなければ賞賛した者の責任を果たしているとは言えないのではないか、と様々な賞賛を読んでいて思った。

この数十年「この自主映画は凄い!」と言われた過去は何度もある。記憶に新しいだけでも「運命じゃないひと」の内田さんや、「サイタマノラッパー」の入江くんなどがいるが、彼らが商業にデビューして、一般人相手にして、日本映画に風穴を空けたかというと、そんなことはない。一生自主映画で商業の流れに乗らずにやっていくという作家ならばいいが、それなりに大きな小屋で上映したいと考えない映画監督はいないだろうから、言うのである。

言うまでもなく、デビューするときのイメージ戦略や、作風、業界の時流、製作会社の思惑、広告などなどがデビュー後の人生に大きな影響を与えるが、自主映画にこそ日本映画の未来があると本気で信じる支援者ならば、自主映画におけるそれらスキームを真剣に構築する必要があると思うのだが、彼らは褒めるだけで実際には(結果的に)なにもしてこなかった。
自主映画出身の監督で力強く成長している人は数多くいるが、それはひとえに本人の努力によるものであって、とんでもない傑作を生み出す才能があったとしても、周囲にそれを活かせるプロデュース能力や興業力が必ずしも伴っていないのは、日本映画の未来と言われる自主映画の不幸であると思う。

非常に冷めた目で見ると、若い自主映画作家への賛辞の多くは、「すばらしい作品に出会えて幸せだ!」という単なる映画ファンのコメントでしかなく、彼らを映画作家として適切な地位に導くための方策に満ちてはいない。自主映画作家でも、ルーカスのように莫大に儲かり、生活できるのならなんの違和感もないが、貧乏して映画を作って、それが優れているから褒められたところで、そんな行為が人生において永続的に続くわけがないのはみんな知っているであって、映画ファン同士がつながるために日本映画を作っているのではないのだから、もっとビジネス的な支援もできないものなのかと思ったりもするのだが、まあ、そういう壮大な愚痴というか嫌悪感というか、まあ要するに(ぼくを含めて)売れてない人々が、これからの若手を褒めそやしたところで、誰が得するんだっつう話。

Magic Cubeの使用感

9/7に予約していた噂のレーザーキーボード、Magic Cubeが届いたので早速試してみました。

画像のように、PCやMACとUSB接続させれば、外付けキーボードとして、あるいはiPhoneやiPad、Androidなどに接続するにはBluetoothを使って接続させる模様。

レーザーの上に指を置きっぱなしにすると、文字が入力され続けるので、いわゆるブラインドタッチは難しい感じですが、赤いレーザーを見ながらポチポチとキーを打っていくと、近未来感が半端ないです。

マウスモードにすれば、レーザーの領域を指で滑らせて、マウスの代わりにもなります。

接続端子はUSBのみ。充電もUSBで行います。

電源セーブモード、レーザーの明るさ調整、キーの過敏性調整など、いくつかキータッチにて設定可能です。

決して使いやすくはないけれど、新しいガジェットで人目を引きたいときには活躍するでしょう。

 

Magic cubeが近未来すぎて感動する!

鵺的「昆虫系」を観劇。アンケートの代わりに。

鵺的「昆虫系」(7/31 15:00)を観劇。そのときぼくは、連続的な破滅を目撃した。

順を追って話そう。

通常、物語は破滅に至る前に幸福があったり、人が死ぬ前に過去が語られたりと、いわゆる「起伏」を持っているものだが、「虫けら以下」ばかりの人間模様は、はなから地獄の一歩手前なので、言うなれば物語は、最初から最後まで「緩やかなる終焉」の一コマに過ぎず、登場人物は誰もが不幸で、誰もが低脳で、誰もが責任を取らず、誰もが無関心である。まともな人間であれば、どこかに逃げて暮らすであろうが、それすら諦めていることを見れば、彼らが生きることに何の希望も見いだせていないことは自明の理で、ただ惰性のまま蠢く様は、確かに虫けらにも劣ると言える。思考が停止した彼らにできることは、再び、あのスナックに集う以外にない。それはまるで、帰巣本能に似ている。

 

命以外に持てるモノのない人間が行き着く先は、どう足掻いても修羅の道であって、唯一のよりどころである「金」もまた、実のところ何の救いにもなっていないのが、作家的な視点という風に思われたが、残った二人の行く末がハッピーなのかバッドなのか、それは見る者によって意見の分かれるところであろう。最後、あの青年の高らかな笑いは、解放感すら感じるが、かといってそのまま暢気に暮らしていけると考えるほどお気楽でもない雰囲気が漂っているのは、「場」の持つ空気ゆえか、それとも芝居のなせる業か、判別はつかない。

もちろん、最後に残ったあの男女の罪は重い。彼らはそれまでずっと、何が起こっているか知りながら、救いもせず、逃げもせず、ただスナックに身を置いて、おそらくは「何か」が起きるのを待っていた。「何か」とは言うまでもなく「決定破滅的瞬間」のことだろうが、いざその結末が訪れてもなお「共犯になるのかなあ」と他人事でいられるのは、一番の人非人、一番の虫けら以下という見方もできる。途中挟まれるナレーションにより、女が生き残ることは予想できたが、行き当たりばったりな行動、無責任な誘惑を思い返せば、人を人と思わぬ底意地の悪さが、そもそもあの女にはあったのだ。

 

つまり傍観者の罪ということをぼくは思った。現代日本には、傍観者に徹する者、傍観者であることを知らぬ者、傍観者であることをやめる者の三種類がいるが、思えば観客という「傍観者」は、あの舞台上で繰り広げられた破滅的人間模様を目撃して、いったい何を考えただろうか。あの狭いスナックは、この狭い日本列島かもしれない。してみると金の亡者である社長と保険屋も、見て見ぬふりの女たちも、死を待つだけの男たちも…そして、突如キレたあの青年も、誰もがこの国に存在する「誰か」を象徴している。作者の高木さんの描く物語が力強いのは、現実から寓話を捻り出すからだ。むろん、その力強さは脚本だけの功ではなく、演出と芝居による先鋭化による貢献も大きい。たとえば芝居をしている役者側をあえてを暗くしておきながら、聞いているほかの人間には明かりが当たっている演出や、聞こえるか聞こえないかギリギリの声量を徹底するあたりは、単なる「リアル」という言葉では片付けられない創意であるし、アフタートークで演出の寺十さんが語った「(裏の芝居は)役者がおのおの勝手に考えて演じた」という言葉(意訳)を信じれば、彼らはあのスナックに存在する理由を明確に掴んでおり、それゆえに何もない中で芝居を形成できたのだろう。「ただ話を聞いているだけの芝居」は難しい。今回はさらに照明が当たってくるのだから、なおさら難しい。しかしそれを成功させてこそ、無関心で見て見ぬふりを続ける罪深き破滅者たちの構造が浮き立ち、この国の向かおうとしている結末が、ホンノリと見え隠れしてくるのである。

キュレーションメディアとしてのスマフォと映像について

7/28朝にtweetしたメディア論をまとめておく。映像屋としては、以下に出てくるキュレーションアプリでの映像制作、映像企画などで活躍する局面が来ると思う。もちろん今まで通りの映画やテレビ番組、DVDなどのコンテンツも必要だし、その立ち位置は揺るがないが、情報の先端ではなくなるだろう。

 

FacebookにおけるSPAMメッセージとやりとりしてみた記録。

Facebookは実名登録が基本だから、ネット経験が薄い人は、ころっと騙されてしまうかもしれない。

ぼくは以前から、暇なとき、SPAMメールに付き合ってみてやり取りを晒してみるということをしているので、今回も(暇だったので)やってみることにしました。

 

 

まずこれがいただいたメッセージ全文。

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Marika Ayabe(写真なし)

  •  

    メッセージを送ろうかどうしようかずっと悩んでたんですけど、思い切ってメッセージを送ってみます。


    私の友達があなたに興味を持ってるみたいで、何度かページを見てるんです。

    よかったらメールとかで直接話してみてくれませんか?


    その子は22歳の可愛い系の子で、ぱっと見は森下まいちゃんをもっと可愛くした感じの雰囲気です。

    写真とか勿論あるんですけど、こんなメッセージいきなりで断られたら目も当てられないので一回返事もらえますか?


    携帯は

    pu-pooh39@ezweb.ne.jp です。


    そしたら写真送るんで見てもらった上でよければ話してみてください。


    私は友達ですが、ななみがfacebookに登録していなくて連絡が出来ないので私からメッセージを送りました。

    facebook内でやりとりするの面倒なんで返信じゃなくて携帯の方にメール下さい♪


    無理だったらスルーで!


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実はこのメッセージ全文と、掲載されている携帯メールは、Googleで検索すれば同様の報告がいくつもある。

 

[こちら]http://www.google.co.jp/search?sourceid=chrome&ie=UTF-8&q=pu-pooh39%4...

 

しかし、付き合ってみたらこうなったという報告は見かけなかった。


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[検証1]送信者は存在するか?

・Facebookには名前検索機能があるので、一目瞭然。Marika Ayabeなる人物は存在しなかった。

 

 

[検証2]まずはメッセージを返してみたらどうなるか?

・相手のアカウントが存在しないのでメッセージが送れず。

 

 

[検証3]携帯アドレスにメールしてみたらどうなるか?

・以下、やり取り全文。

 

件名山本清史といいます。

日時2011年7月24日 15:43:00 JST

宛先pu-pooh39@ezweb.ne.jp


6月頭にFacebookでメッセージをもらった者です。

仕事が立て込んでいて全く気づきませんでした。ご無礼をお許しください。


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差出人pu-pooh39@ezweb.ne.jp

件名[SPAM] Re:

日時2011年7月24日 15:48:01 JST

宛先Yama



あ、わざわざすいません・・・(*´ェ`*)


とりあえず、顔もわかんないと何も話せないと思うんで写真見てくださいね!


ななみはfacebookやってないんで私が代理でメッセージ送りましたけど、

あくまで私は代理で送っただけなんでここから先は直接話してください。


ななみがやってるSNSから招待状出してもらったんでそこで直接ななみと連絡取れます。

アドレスを人に教えることに私は抵抗あるんで、直接聞いてください。


ただ、実はちょっとわけ有りで、実はこの子結婚してるんです。

実家に越してきたばかりで姑さんと色々揉めたりしてて疲れちゃってるみたいで。。。


旦那さんは40歳?くらいで偉い人らしく、お金はいっぱいあるみたいなんですけど、

お金だけあっても幸せにならないですよね。ななみがかわいそう。


相談に乗ってあげてくださいね!


ななみから来たメールそのまま貼っとくんで招待状ってところ見てみてね!





まーじーでー!

最近いろいろあってしんどかったけど、ちょっと元気でた!


でもこれで連絡なかったら笑えないよね・・・涙

ちゃんと気持ち伝えてくれた?


ぁたしなんかと話してくれるかなぁ

だめだったらその時は慰めて☆

写メ見て嫌われたら立ち直れないなぁ…わら


連絡来たらあっち来てって伝えて欲しいな!招待送っとくからそれ伝えて!


http://e-sophia-i.net/edetail/index.php?a=(以下略)



ほんと面倒なこと頼んじゃってごめん!

また近いうち飲みいこう~~


From ☆なーみ☆


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[検証4]招待されたSNSに登録してみたらどうなるか?

Nanami_invite


このようなサイトに誘導される。

参加を希望して登録しようとすると、


Nanami_invite_2

 

このような画面になる。

だが登録しようとしても、「登録エラー」となり登録できない。

ニックネームなどを英字、ひらがなと変えても同じ。



[検証5]登録できない旨を先ほどの携帯アドレスに伝えてみる。

・以下、メール全文(ぼくのhost情報は伏せ字にしました)。


差出人Yama <yama@.xxxx.xx>

件名[SPAM] Re: 

日時2011年7月24日 16:09:55 JST

宛先pu-pooh39@ezweb.ne.jp



登録できないみたいです。エラーが出ていますよ?




差出人Mail Delivery System <MAILER-DAEMON@xxxxxxxx.jp>

件名[SPAM] Undelivered Mail Returned to Sender

日時2011年7月24日 16:09:55 JST

宛先Yama 



This is the mail system at host xxxx.xxxxx.jp.


I'm sorry to have to inform you that your message could not

be delivered to one or more recipients. It's attached below.


For further assistance, please send mail to <postmaster>


If you do so, please include this problem report. You can

delete your own text from the attached returned message.


                  The mail system


<pu-pooh39@ezweb.ne.jp>: host lsean.ezweb.ne.jp[222.15.69.195] said: 550 : User

   unknown (in reply to end of DATA command)

Reporting-MTA: dns; xxxxxxxxx.jp

X-Postfix-Queue-ID: 919CF21281FB

X-Postfix-Sender: rfc822; yama@xxxx.xx

Arrival-Date: Sun, 24 Jul 2011 16:09:55 +0900 (JST)


Final-Recipient: rfc822; pu-pooh39@ezweb.ne.jp

Original-Recipient: rfc822;pu-pooh39@ezweb.ne.jp

Action: failed

Status: 5.0.0

Remote-MTA: dns; lsean.ezweb.ne.jp

Diagnostic-Code: smtp; 550 : User unknown




[検証6]サイトのURLをいじってみる。

・招待されたURLを変えると、


Invite_custom


このようになり、上の階層までさかのぼっても内容は変わらず。

http://e-sophia-i.net/

にアクセスしてみるが、何も表示されない。



[検証7]その後何が起こるか待機。

・すぐに出会い系メールがやってくる。アクセスしてみると、このサイトに登録されているようだ。

http://pcfree.sophia-i.net/index.html?media=pczzz

 

 

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以上、意外とつまらないSPAMでした。

無料化する時代の流れにぼくたち作家はこれまで以上に頭を使わなければ生き残れない。

漫画家が飢えて死ぬか、読者が飢えて死ぬか。というタイトルのtwitterまとめがある。詳細は読んで頂ければわかるが、この不毛な議論の面白いところは、この時代に作家がどう戦うべきかということを考えさせられる点だ。

このまとめで問題になった「マンガ共有サイト」をはじめ、youtubeなどの「動画共有サイト」、モバゲーやGREEといった「無料ゲームサイト」等々の隆盛を見れば瞭然であるが、もはやマンガのみならず、コンテンツはすべからく無料化していて、この流れには誰も逆らえない。フリーミアムという言葉が流行るくらい、どちらかというとちょっと求められていることですらあるように感じられる。

無料で利用できるのに、有料システムを利用する消費者がいるだろうか。自分の身体に入れるものならともかく、コンテンツなど消費するだけしか用がないものに対して、できるなら金を払いたくないと考える消費者のほうが圧倒的多数の筈だ。作家への敬意の問題ではなく、それが消費者の心理である。

昨年ロスアンジェルスに仕事で行った際、時間があったので現地のDVD販売ショップに連れて行ってもらった。そこは驚くべきことに、すべてが海賊版だった。日本のアニメ、中国のアクション、ぼくのホラー映画、勿論ハリウッド大作まで、DVD-Rに盤面印刷し、トールケースにコピーしたパッケージを挟み込んで、激安のDVDとして売っていたのだ。だからといって、店主を問いつめたりするのは野暮だ。それが、彼らの消費生活のリアルなのだ。高いものは買わない。コンテンツの真偽は内容であってパッケージではないのだ。中身が同じなら、安い方が良いに決まっている。誰だってそう思う。日本人なら、ブランド品を出来るだけ安く購入したいがために色々な方策を採ってきた過去を見ればわかるはずだ。その結果偽物を掴まされて泣きを見るものもいるが、幸か不幸か、コンテンツにはそれがない。せいぜい「放送を録画」した際に入る速報テロップが画面を横切るくらいで、そこで初めて「これは海賊版だったのか」と気付く人もいる。

なぜ海外の話を持ち出したかというと、ぼくはその海賊版DVDショップで思い知ったからだ。光回線で世界中が繋がってほんの数分でどんなコンテンツでもコピー配布出来る今、飛行機で十時間もかけてロスと日本を往復し、海賊版を取り締まったり、正規版を売りに行く──そんな行為がいかにバカバカしいか。ぼくは日本にいて、日本で映画を作っていたから、アメリカでホラーがもてはやされているなんて話を真に受けていたけれど(それは一部事実だけれども)、その割に利益に繋がらない理由が明白にわかった。そのDVDショップだけではなかった。別の日本人経営のショップも数件回ったが、同様だった。それどころか、さすが日本人のきめ細かさで、日本で放送中の連続ドラマ最新話がVHSとDVDで置いてあるくらい気が利いている。あれだけ権利に小うるさいハリウッドのお膝元でそうなのだから、世界各地がどうなのかは、想像するに難くない。

これは単にモラルの低下、という言葉だけでは済まされない。モラルそのものが崩壊しているのだから、低下もへったくれもないのだ。

問われるべきは、そうしたモラルや消費者心理ではなく、この「無料化する時代の流れ」に乗りながらも利益を出していくことができない会社や作家の怠慢であると、ぼくはこの際断言したいのである。

消費者を問いつめても何も解決しない。刑罰を重くしたところで、捕まるのはせいぜい数人で、自分には害がないと思う。それもまた消費者心理なのであって、自分だけは許されるのだという意識で行動していると見なければ、到底理解できないハメになる。

映画の冒頭や、ゲームの冒頭、マンガのあちこちにも、違法アップロードやダウンロードに関する注意書きが増えてきたが、あんなもので本当になくなると思っているのだろうか? 創り手であるぼく自身が、まったく思っていない。まったくなくなるイメージが出来ない。そんなことでなくなるくらい「良心」が残っているなら、こんな状況にはなっていないのだ。

したがって、作家や会社は、コンテンツ自体は無料で配信し、その中で利益回収する仕組みを模索するか、中古や違法行為を見越して、単価をドカンと上げるしか方法がない。

そうでなければ違法者を根こそぎ突き止めてとっちめるしかない。

作家は自分の身を自分で守らねばならないのだから、消費者の良心に生活を委ねては負けと思う覚悟が必要だと思う。従来のやり方が通用しなくなっているなら、従来にはないやり方に挑戦しなくては。みんなそうやって生き残ってきたのだから。お金を払わない消費者が悪い、というのは理屈であり一般論だと自覚しようじゃないか。現実はお金を払わない人がいっぱいいる。すべてが無料化していくのなら、お金を払わない消費者が大半になる日も近い。しかし希望はある。テレビだって無料で見ているし、Facebookだってgoogleだってぼくたちは無料で消費している。

彼らは食い詰めて死んだだろうか?

 

ミニシアターとはどうあるべきなのか?

2011/02/11に、日経トレンディにこのような記事が出た。

http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20110207/1034423/?rss

昔と比べると、若者がミニシアターから離れている傾向もあるという。

「少子化などもあり原因は一概には言えませんが、若いお客さんはたしかに減っていると思います。90年代までのミニシアター文化は若い人が引っ張っていました。大学生から20代後半くらいまでの方です。その方々が現在40代になって、映画を観なくなっている傾向はあると思います」

 

 

それに対して、ぼくはこのような意見をfeedした。

渋谷のミニシアターが廃れていったのは、映画がファッションとして機能しなくなっているからだと思う。

映画は娯楽であり、芸術なのであって、娯楽や芸術を嗜む者(=観客)はそれ相応の「場」を求める。逆に言うと、それ相応の「場」がなければ、娯楽も芸術も育たない。

本来であれば、上映する映画館によって、映画の色味や音響を変えていくのが、創り手の良心だと思うが、興行するためにフィルムの統一を図り、音響システムの統一も図った。しかしデジタルになり、いっこうに統一されない規格に左右されているぼくたち創り手が、映画館のため、観客のために、最適な上映環境を設定することは事実上不可能となっている。そしてハッキリ言って渋谷のミニシアターの上映環境は全然良くない。最初から決まっていれば調整も出来るだろうが、納品したあとで配給されるシステムでは、意図した色味も出せないし、音も妥協する結果となる。

単館公開から始めていくのであれば、そういった「上映の最適化」を最初から企画として折り込み、一丸となって取り組むのも手だと思うし、そうして欲しいと思う。

どこで上映するかわからないから、とりあえず標準的な仕上がりをする、というのは創り手として忸怩たる思いがあるし、それを強いられるのは、正直悔しい。映画は映像と音響表現なのだから、そこにこだわりと投入できないのは、かなりもったいない。

映画館はアウトプッターとして、その役目を果たして欲しいと思うし、映画館スタッフのみならず配給会社の人間もそのあたりから考え直さないといけなくなっていると感じている。勿論、少なくともぼくは、そうした細かい作業に全て応じる覚悟があるし、多くの創り手がそうだと思う。

 

 

ルーブル美術館に世界最高峰の美術品が集まるのは、ルーブルがそれに見合う「場所」だからだ。ステイタスという意味でのプライドもさることながら、最高の環境で「芸術に親しめ」る上に、最高の状態で「芸術を提供」できることも重要なことだ。

東京にも、そうしたミニシアターはある。けれど残念ながら、予算や機材の関係もあり、意図した最良の状態で作品提供できているとは言い難い場所もある。観客にとってはわからない細部かも知れないが、創り手や配給元がそこを捨てて良いわけはない。

わざわざ「ミニシアター」と名乗るのなら、創り手にとっても観客にとっても最高の状態で映画を提供する場でなくてはならないと思うが、現在閉館の相次ぐ渋谷系ミニシアターの多くは(少なくともぼくには)、単なるファッションにしか思えなかった。つまり「オシャレな映画をオシャレな街で上映」しているだけのことであった。

映画は、服やアクセサリーのような、消耗品ではない。創り手の多くは後世に残る作品を生み出すために努力している。結果的に駄作になることはあるが、消耗されるためにこんな(馬鹿げた)行為に命は賭けられない。