バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

もうすぐ終わるらしいので、慌てて観ました。
最近、映画監督らしい仕事をほとんどしていないので、自らの映画愛に疑問を抱いていましたが、この映画を文句なしに傑作だと思える程度には反骨心が残っていたようで、ホッとしています。

全編ワンカットというのも、技術の進歩で最近では難しくなくなりましたが、世界観的な意味で、ワンカットにする必然性を持った映画というのは、そんなに多くないと思います。
映画のカットには、何一つ無駄なものは存在しないのは当然ですが、単に編集技法としてのワンカットと見るか、世界観的な必然としてのワンカットと取るか、捉え方が違えば、この映画への評価は全然違うものになるのでしょう。

やりたいからやっているのではなく、やる必要があるからやっているな、と思いました。
なぜなら、冒頭数カットはモンタージュが数カット短く入り、回想や予兆を示すものが続きました。正確に言えば、全編ワンカットというのは間違いですので、この手法が明らかになんらかの意図で行われていたことの証明になるわけです。それがなんなのかは、主題と照らし合わせれば見えてくるのですが、演劇をモチーフにしている以上、メタ構造なのでしょうね。時折入るブラックアウトや書き割りに照明があたって日替わりするという演出もまさにそうです。

演劇の映画だからといって映像を演劇的に見せる必要があるのかないのかといえば、「映画」という意味では別になくても成立はしますが、カットでつなぐという方法は、「映画の特徴」そのものです。
しかし本作は映画を皮肉った世界観である以上(そして、本作自身すら笑い飛ばすために)は、その「映画の特徴」に挑戦しなければいけなかったのでしょう。ぼくはその構想を支持したいのです。

冒頭とラストの入れ子構造も好みです。飛ぶということの意味合いが見事に対比されています。
バラバラだった家族は絆を取り戻し、すがっていた過去の栄光は消し飛び、新たな評価を得たことによって、虚構の中でしか飛べなかった彼が、現実世界で羽ばたけた。その安堵感。飛んでいた彼を散々とらえ続けたカメラが、最後の最後で第三者の顔(それも笑顔)をとらえたオシャレさ(あるいは皮肉さ)。

イニャリトゥは、毎作毎作、こういうチャレンジを盛り込んできます。一筋縄ではいかない奴です。そのくせ、紡ぐストーリーは常にシンプル。
ヒッチコックが生きていたら、彼のことを後継者と呼んだかもしれない。

ベイマックスが傑作すぎた件について日本アニメとの比較論を考察。

ベイマックスがとんでもない傑作だったので放心しています。ストーリー中に、ありがちなフラグが立ちまくってても、映画としての面白さがまったく損なわれていない。これは橋本忍が言うところの、テーマとストーリーが一致しているが故かなと。ぶれようがないから、一見シンプルに見えるけれども、この描き方は尋常じゃない。設定は細かいのに、画面のデザインが練りこまれてる上に、主人公ヒロの目線がバランス良く演出されていて、考えなくても理解できちゃう。ヒロの目線以外では描きようがないテーマだから当たり前と言えば当たり前だが、そこを徹底できるかどうかは難しいもの。そういう意味でも、ベイマックスが暴走するときの演出はとても良かった。



語弊があるかもしれないが、テッドの印象に近いかな。

ここからは蛇足ですが…。この映画に関するはてなの記事が出回っており、ベイマックスと比較すると「あ、日本のアニメ終わったな」とかいう言説がどうのこうのとあるようです。

それに関する私見を述べます。

ベイマックスと比較するまでもなく、日本の多くのアニメとディズニーアニメとではいろいろ違うわけで、終わったも始まったも観客の好みではありますが、3Dアニメでは太刀打ちできないのは、まあ、確かです。それは創り手が悪いとかそういうことではないと思っていますが、あえて日本の多くのアニメとこのベイマックスを比べるならば、前者は「記号の集まり」で構成するのに対して、後者は「記号を作り出して」構成するところにあります。

前者の良い例は細田守の「サマーウォーズ」だったりします。ぼくはこの映画はあまり好きではありません。その理由が「記号の集まり」にあります。ステロタイプなキャラクターが特に驚きもないステロタイプな行動をする、どこかで見たような造型、どこかで見たようなサイバー空間、どこかで見たような悪い化け物。花札勝負、というところは唯一、独自性があるものの、ストーリーが「記号の集まり」と関わりすぎて、浮いてしまっています。逆に言うと、それが「いい」という意見にもなります。おばあちゃんの手紙はバルスなみに感動を呼ぶシーンだということです。ぼくにはそれすらも予定調和に見えて仕方ありませんでしたが。



ところで実はステロタイプなもの、ということではベイマックスも同じなんですね。出てきた瞬間にわかる一見善人なラスボス。死ぬであろう人物。リフレインされるであろう台詞。予感されるラスト…。予想はことごとく裏切られません。サマーウォーズのおばあちゃんの手紙と同じく、死んだあの人の言葉が主人公に届くのは、まあ「よくある話」じゃないですか?しかし、決定的な違いは「記号を作り出して」いるところです。



なぜ、サマーウォーズは、おばあちゃんの手紙だったのでしょう? 最後はサイバー空間でコイコイしているのに。つまり、「手紙」では感動の装置として、ギミックとして弱いということです。あのままでは、手紙は飛び道具でしかなく、他に方法がなかったの? という疑念が生まれます。



一方ベイマックスでは、ベイマックスが見た主観映像を主人公が追体験するという方法で、あたかも目の前にいる人物と話しているかのように描かれます。そしてそのギミックは、ラストシーンで繰り返される。死んだ人物の記憶が、主人公に取って代わるという意味で、単なるステロタイプを超えた演出になるわけです。記号を作り出す、とはそういう意味です。作品の中で「これはAという記号です」と観客に明示しておき、その記号をちりばめて感情を揺り動かすことです。視聴前からすでに観客が持っているステロタイプな記号を作品にそのまま生かして構成するのとは違うのです。



これは前者の舞台が日本で、後者が海外だから、ぼくがステロタイプをはき違えているのでしょうか? 海外の、特にアメリカあたりに生まれ育っていたら、逆になるのでしょうか?

ここは一考の価値がありますが、両者には決定的な違いがあります。

それは「視点」の違いです。

ベイマックスも確かにステロタイプです。ディズニーのアニメは大体そうですが。しかし誰の目線で見れば良いかハッキリしているので、記号はすべて主人公から見た記号になります。

一方、日本の多くのアニメは、視点が散逸しやすく、観客から見た記号になってしまいがちです。もちろん主人公の視点をキッチリ描いているアニメも多くありますから、全体論ではありませんが、そういう傾向にあります。それは求められているからだと思われます。アニメはグッズと紐付きますから、多くのキャラクターに視聴者が関わってくれた方がいい、という計算もあるのかもしれません。

他方、宮崎作品や今敏作品などは、どちらかというとベイマックスに近いです。監督の作家性が強すぎて見過ごされがちですが、ストーリーの軸は単純ですし、描かれる記号も、作品独自のものです。ディズニーアニメと比べても遜色ありません。作画の芸術性ということを踏まえると、フィルムの一コマを貰えるとしたら、断然宮崎や今敏作品を選ぶでしょう。ただしこれらの巨匠は、もう他界しているか制作ペースが落ちているので、終わっていることにする、という言説も否定しにくい状況ではあります。

世の中に溢れる記号を作品の中で消費するアニメが日本の主流となるのなら、一部のファンからは終わっていると思われても仕方ないのかなというのがぼくの考えです。なぜならそれは、言葉通り「消費物」でしかないからです。

しかしこういう作品がヒットする世界と、ベイマックスのようなアニメがヒットする世界は、別世界だと思いますので、比較する意味がないと考えます。

最後に。誤解して欲しくないのは、記号を逸脱したキャラクターやストーリーを作っても、それはそれで敬遠されるということです。絶妙なデザインが必要なのであって、奇をてらうわけでもなく、消費するわけでもなく、構築しなければならないのだと思います。



ベイマックスはそんなことを考えさせられる映画でした。



追記:
ヒロの目線で描くしかないから、悪役を倒したときのカタルシスはない。そこが物足りなさということになるのかもしれないが、作劇的には目線を固定して正解なので、これは非常に勉強になる作品だと思う。
アナ雪のラストと比べてみるとさらによくわかる。アナ雪のラストもアナの目線が中心で、アナとクリストフのカットバックだけど、物語のカタルシスはエルサとハンス王子に突如移る。そこにアナが乱入してハンスを倒す…という展開は、全くカタルシスはないよね。
実写映画なら、そこで「逃げるエルサと追うハンス」のシーンを挟み込むし、二人を見つけつつ、クリストフとキスしなきゃと思うアナ、アナの元に駆けつけたいクリストフのカットバックで構成されるはず。そしてアナ雪はそうしてもよかった。それくらいキャラのバランスが取れてたから。
でもベイマックスでは、悪役と主人公側のキャラバランスが悪すぎて、悪役のシーンを描くことは不可能だと思う。ヒロ目線で描けるのは、あのモニターに映るシーンが精一杯でしょう。



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Atomos Shogunファーストインプレッション


開梱してみると専用のケースに本体と周辺機器がまるっと収まっている仕様。まるでお江戸の将軍様がカゴに揺られているかの如く。


上下二段に分かれていて、上段に将軍様が鎮座ましまし、下段にアダプター類が警護を固めておられます。


将軍様のお顔もといディスプレイはテッカテカで、指紋がバッチリ載りやすいのは穢れを知らぬ証拠。ボタン類は小さいので、指が大きい人は扱いづらいかも。将軍様は繊細なのです。


電源ボタンを押して数秒。手を離すと赤いランプが灯り、将軍様のお目覚めです。おはようございます。


側面にHDMI、背面にSDIの入出力端子があって、BMCCのSDI出力も画像のとおり。1080P/23.98を認識しております。さすが将軍様、お見事です。


さきほどのケースの中に音声アダプターも入っていて、キャノン端子を接続可能…だけど、将軍様のスマートさを生かすためにはあまりケーブルを付け足さない方が良いように思うのはぼくだけかしら。


BMCCで使用していたインテルのSSD(550シリーズ)は公式情報のとおり、フォーマット完了で使用可能。240GBで2〜3時間ほどの収録って感じですかね。


BMCCはスルーアウトがなさげなので、スクリーン情報がまんま録画されてしまうから、BMCCメニュー画面から消す必要があるのは、まあ仕方ない。


右下の水色のボタンを押すと、RGB情報などが見られるのも嬉しい。赤いボタンを押すと、ゼブラとかピーキングとか設定できます。


上下に1/4インチの三脚穴があるのでどこぞの好きな場所にでも設置してくれい! という将軍様の思し召し。我ら庶民はしかと心得、活用致しましょう。






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オリジナル小説、発売になりました。

DJI Phantom2 Vision plus のジンバル異常と修理の仕方。あとH3-3Dに付け替えることが可能であることが判明しました。

備忘録。

かなりニッチな投稿ですが、わかる人には「おおっ」って感じの内容です。

10/16にDJI phantom2 vision+(マルチコプター: 以後P2V+)のジンバル異常が発生。

症状は、モーターから激しく異音がし、永遠に水平を取ろうともがいている。一分もすると発熱し、素手で触れなくなるというものです。


なぜこうなったかというと、P2V+のカメラはいまいちしょぼいので、別のジンバルH3-3Dに付け替え、Goproにて撮影できないかという実験を行った際、ジンバル内部を分解し、回路を見比べていたときに、なにかミスをおかしたのでしょう。

全て元通りにして付け直したはずが、異常発生ということで、基盤がやられたとばかり思っていましたが、色々と調べてみると、海外ユーザーで同じような症状に苦しむ仲間が多く、解決策を見つけた人たちがいました。

墜落等でジンバルが損傷した際、同じ症状を経験している方が多いようです。

下記リンクを参照。

http://bit.ly/1qIUPPG

http://bit.ly/1qIUQTW

なんとも簡単な話で、ジンバルのモーターを止めている軸があるのですが、その軸は半月状になっており、平らな面があります。その平面の向きを2軸目はカメラの水平と同じくすれば直ると言うことでした。

ぼくの場合は、3軸目を分解していたので、そこの軸を直せばいいのだなと思いつき、いろいろ試したところ、カメラに対して垂直にするというそれだけのことで異常は治りました。

H3-3Dの異常動作も同じ処理で治ります。

P2V+のジンバルもH3-3DもDJI製品なので、基本設計は同じで、回路も似たような物でした。

これを修理に出すと、検査費用だけで18900円取られますのでバカバカしい話です。

ちなみに、DJI正規代理店の某店舗はP2V+にH3-3Dは付けられませんと言っていましたが、普通に付けられますし、チルト操作もできます。

P2V+は操作系が920Mhzなので、2.4Ghz帯と干渉せず、Goproのアプリを使うことも可能。もちろん2.4Ghzの映像伝送で高品質FPVも行けるはずです。

そして、P2V+のジンバルの上部分だけを残して、下はH3-3Dにはめ替えてしまえば…おそらくP2V+のFPV機能をGoproで行うことが可能だと思います。


[追記]
P2V+にH3-3Dを付け替える場合は、P2V+に付いている8ピンケーブルを引っ張り出す細工がまず必要ですので自己責任で行ってください。

P2V+のジンバルには、機体から3本のケーブルが出ています。4ピンと6ピンと8ピン(2本抜けている)です。
それを全部外して、ジンバル本体を外します。
すると3本のケーブルは機体の穴(phantom2のH3-3d用の穴と同じです)から少しだけ出ている状態になっているはずです。
その状態で引っ張っても、穴の内側でプラスチック板と糊付けによりロックされているため、動きません。
しかしロックしているプラスチックをマイナスドライバーなどで破壊すると、ケーブルが自由になります。

自由になった8ピンケーブルを一度機体内側に戻し、繋がっている基盤を確認してください。
その基盤はP2V+のコンニャク防止板です(セキドにて売っています)が、その一番近くにあるスキッド穴を開けてください。
おそらく現状は、アンテナが出ているだけで、ゴム状の白い栓で塞がっているはずです。
その栓を外して8ピンケーブルを穴から出すと、H3-3Dの背面にある8ピン端子に接続できます。

あとはP2にH3-3Dを付けるのと同じ要領でねじ止めすればOKです。



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2011年作品のゾンビ時代劇が漫画になりました。 "EDO OF THE DEAD" COMICS TRAILER (by...





2011年作品のゾンビ時代劇が漫画になりました。


"EDO OF THE DEAD" COMICS TRAILER (by luluie)






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大手と同じ道を歩むことが若手映画人にとって幸せなのか?

15日にクランクインするゾンビ映画がある。




これは短編ではなく長編でもなく中編と言うべき、50〜60分の作品なんだけど、16ミリで撮影してデジタルで編集という今時のやり方でいかにも映画作品、という感じがするものの、実はこれ、京成小岩に誕生した新築アパートの「コンセプトPR映画」なんです。


新築の物件使ってゾンビモノ撮るというのは、まともな映像制作会社や広告会社はやらないだろうし、そもそもPRするのに苦労して映画を作ることもないでしょう。


でもね、だからこそぼくの出番があるわけで。


あらゆる業界において、勝ち残るのは1位と2位だけで、あとは淘汰されると言われていますね。


生き残るためには付加価値こそが重要ですが、特に市場規模の大きい不動産関係の世界は、1%の人が興味を覚えれば100億円くらいは売上げが立つそうで。


大手と張り合っても仕方がないし、大手が王道を行くからこそ、特徴ある付加価値が生きてくる。


映画というのは、今後そういう道も模索していくべきだと、ずっっっっっっと思ってるんだよね。


CMは15秒とか30秒と相場が決まってる。


PR映像だって、長くても10分程度でしょ。


だけどそれらが流れる媒体の出稿料金の高さと言ったら。


一秒単価を考えたら、映画の方がよっぽど良い。


新聞に出稿したり、テレビCMを流すよりも、映画を作れる方が信用度高くなるんじゃない? っていうのが、そもそもの発想だったわけですが、実際、映画館に顧客を呼んで、映画見てから営業トークした方が、1%の心を掴むのは早いと思うんだ。


そしてこの仕事が成功すれば、もっともっと売上げの大きい会社へも乗り込める気がする。視聴率を信じていない経営者ってのは、かなり多いからね。


だってね。


CM枠を買うよりずっと安い値段で、映画館のスクリーンを一週間借りられるし、CMを作るのと同じくらいの予算で、映画が撮れちゃう時代ですからね〜。多くの人はまだ、映画を作るのには多大のお金がかかると思っている。それは、確かに、かかりますよ。でもその金額は、映像による宣伝広告費としてみれば、割安なわけです。



実は映画製作というのは全世界的に二極化していて、一つはスター総出演のメジャースタジオ映画。もう一つはその100分の1以下の予算で作られるアート系、独立系────という言い方ももう古いけど、要するに非メジャー映画。昔はこの中間地点というものがあったけれど、いまは、その中間地点の作品がほとんどといって良いくらい見向きもされない。



スピルバーグが「アメリカ映画は超大バジェットの映画だけが製作されるようになり、それ以外はテレビのオンデマンドで流れるようになるだろう」とコメントしていましたが、そういうことなわけです。


でもアメリカ映画の市場規模は1.5兆円ですし、ケーブルテレビやオンデマンドテレビの発展からしても、日本よりはマシですね。


一方日本映画は製作本数も興行収益も中国に抜かれ、10年後はどうなっているかわからない。テレビの視聴者数も減少傾向だし、ネットの配信が流行っているかというと……まだまだですよね。


じゃあ東宝以外の会社はどうするんですか? 500万〜3000万円程度の予算で3年に一度なんとか映画を撮るなんていうやり方で、粗利をどれくらい取れるんでしょう? 無理でしょ。ランニングコスト減らして、過去の権利を運用してなんとか生き残るのが関の山でしょ。地元のTSUTAYAなんかこの連休、DVD5本レンタル100円ですって。


映画の価値ってそんなもんじゃないでしょ?


────というお話。


だけど、映画のプロデューサーさんたちとお話ししても、こういうことを話せる人って本当に少ないね。


まあ、脚本がわからない、機材を知らない、ワークフローを語れない、そういう人が「製作者」名乗ってるんだから、しょうがないかなと思う部分もあります。




人を育てる余裕もないし、業界を変革していこうという気概も持てる状況じゃないですしね。


だから結局、1位と2位の争いに巻き込まれ、淘汰される運命にあるんでしょう。



若手と言われる映画人は、数年後か数十年後か、その大渦の様子を中で見るか、外で見るかの選択に迫られる。




中に飛び込んで渦ごと消し去るという大技にでる人がいればいいけど、まあそうはならないでしょうね。







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