ベイマックスが傑作すぎた件について日本アニメとの比較論を考察。

ベイマックスがとんでもない傑作だったので放心しています。ストーリー中に、ありがちなフラグが立ちまくってても、映画としての面白さがまったく損なわれていない。これは橋本忍が言うところの、テーマとストーリーが一致しているが故かなと。ぶれようがないから、一見シンプルに見えるけれども、この描き方は尋常じゃない。設定は細かいのに、画面のデザインが練りこまれてる上に、主人公ヒロの目線がバランス良く演出されていて、考えなくても理解できちゃう。ヒロの目線以外では描きようがないテーマだから当たり前と言えば当たり前だが、そこを徹底できるかどうかは難しいもの。そういう意味でも、ベイマックスが暴走するときの演出はとても良かった。



語弊があるかもしれないが、テッドの印象に近いかな。

ここからは蛇足ですが…。この映画に関するはてなの記事が出回っており、ベイマックスと比較すると「あ、日本のアニメ終わったな」とかいう言説がどうのこうのとあるようです。

それに関する私見を述べます。

ベイマックスと比較するまでもなく、日本の多くのアニメとディズニーアニメとではいろいろ違うわけで、終わったも始まったも観客の好みではありますが、3Dアニメでは太刀打ちできないのは、まあ、確かです。それは創り手が悪いとかそういうことではないと思っていますが、あえて日本の多くのアニメとこのベイマックスを比べるならば、前者は「記号の集まり」で構成するのに対して、後者は「記号を作り出して」構成するところにあります。

前者の良い例は細田守の「サマーウォーズ」だったりします。ぼくはこの映画はあまり好きではありません。その理由が「記号の集まり」にあります。ステロタイプなキャラクターが特に驚きもないステロタイプな行動をする、どこかで見たような造型、どこかで見たようなサイバー空間、どこかで見たような悪い化け物。花札勝負、というところは唯一、独自性があるものの、ストーリーが「記号の集まり」と関わりすぎて、浮いてしまっています。逆に言うと、それが「いい」という意見にもなります。おばあちゃんの手紙はバルスなみに感動を呼ぶシーンだということです。ぼくにはそれすらも予定調和に見えて仕方ありませんでしたが。



ところで実はステロタイプなもの、ということではベイマックスも同じなんですね。出てきた瞬間にわかる一見善人なラスボス。死ぬであろう人物。リフレインされるであろう台詞。予感されるラスト…。予想はことごとく裏切られません。サマーウォーズのおばあちゃんの手紙と同じく、死んだあの人の言葉が主人公に届くのは、まあ「よくある話」じゃないですか?しかし、決定的な違いは「記号を作り出して」いるところです。



なぜ、サマーウォーズは、おばあちゃんの手紙だったのでしょう? 最後はサイバー空間でコイコイしているのに。つまり、「手紙」では感動の装置として、ギミックとして弱いということです。あのままでは、手紙は飛び道具でしかなく、他に方法がなかったの? という疑念が生まれます。



一方ベイマックスでは、ベイマックスが見た主観映像を主人公が追体験するという方法で、あたかも目の前にいる人物と話しているかのように描かれます。そしてそのギミックは、ラストシーンで繰り返される。死んだ人物の記憶が、主人公に取って代わるという意味で、単なるステロタイプを超えた演出になるわけです。記号を作り出す、とはそういう意味です。作品の中で「これはAという記号です」と観客に明示しておき、その記号をちりばめて感情を揺り動かすことです。視聴前からすでに観客が持っているステロタイプな記号を作品にそのまま生かして構成するのとは違うのです。



これは前者の舞台が日本で、後者が海外だから、ぼくがステロタイプをはき違えているのでしょうか? 海外の、特にアメリカあたりに生まれ育っていたら、逆になるのでしょうか?

ここは一考の価値がありますが、両者には決定的な違いがあります。

それは「視点」の違いです。

ベイマックスも確かにステロタイプです。ディズニーのアニメは大体そうですが。しかし誰の目線で見れば良いかハッキリしているので、記号はすべて主人公から見た記号になります。

一方、日本の多くのアニメは、視点が散逸しやすく、観客から見た記号になってしまいがちです。もちろん主人公の視点をキッチリ描いているアニメも多くありますから、全体論ではありませんが、そういう傾向にあります。それは求められているからだと思われます。アニメはグッズと紐付きますから、多くのキャラクターに視聴者が関わってくれた方がいい、という計算もあるのかもしれません。

他方、宮崎作品や今敏作品などは、どちらかというとベイマックスに近いです。監督の作家性が強すぎて見過ごされがちですが、ストーリーの軸は単純ですし、描かれる記号も、作品独自のものです。ディズニーアニメと比べても遜色ありません。作画の芸術性ということを踏まえると、フィルムの一コマを貰えるとしたら、断然宮崎や今敏作品を選ぶでしょう。ただしこれらの巨匠は、もう他界しているか制作ペースが落ちているので、終わっていることにする、という言説も否定しにくい状況ではあります。

世の中に溢れる記号を作品の中で消費するアニメが日本の主流となるのなら、一部のファンからは終わっていると思われても仕方ないのかなというのがぼくの考えです。なぜならそれは、言葉通り「消費物」でしかないからです。

しかしこういう作品がヒットする世界と、ベイマックスのようなアニメがヒットする世界は、別世界だと思いますので、比較する意味がないと考えます。

最後に。誤解して欲しくないのは、記号を逸脱したキャラクターやストーリーを作っても、それはそれで敬遠されるということです。絶妙なデザインが必要なのであって、奇をてらうわけでもなく、消費するわけでもなく、構築しなければならないのだと思います。



ベイマックスはそんなことを考えさせられる映画でした。



追記:
ヒロの目線で描くしかないから、悪役を倒したときのカタルシスはない。そこが物足りなさということになるのかもしれないが、作劇的には目線を固定して正解なので、これは非常に勉強になる作品だと思う。
アナ雪のラストと比べてみるとさらによくわかる。アナ雪のラストもアナの目線が中心で、アナとクリストフのカットバックだけど、物語のカタルシスはエルサとハンス王子に突如移る。そこにアナが乱入してハンスを倒す…という展開は、全くカタルシスはないよね。
実写映画なら、そこで「逃げるエルサと追うハンス」のシーンを挟み込むし、二人を見つけつつ、クリストフとキスしなきゃと思うアナ、アナの元に駆けつけたいクリストフのカットバックで構成されるはず。そしてアナ雪はそうしてもよかった。それくらいキャラのバランスが取れてたから。
でもベイマックスでは、悪役と主人公側のキャラバランスが悪すぎて、悪役のシーンを描くことは不可能だと思う。ヒロ目線で描けるのは、あのモニターに映るシーンが精一杯でしょう。



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