自主映画だって映画だぜ、その辺の大作より凄いぜ、、、と言うなら、その辺の大作なみの待遇もなければ不幸だよ。


「へんげ」という映画がネット上でとても評判になっている。試写会の案内などは届かないので未見だが、映画単体がいかに傑作であろうと、この業界の仕組みが変わっていかない限りは、不遇な若者がまた増えるだけであることを、先輩や同僚の映画人はもっと真剣に考えた方がいいのではないか。


自主映画で、無名キャストで、中編で、という映画が、一般人に届くことは非常にまれで、届く機会を(「へんげ」のように)得たとしても、一般人が年に映画を見る回数は、驚くほど少ない。
一般人に届かなくてもいい、というのであれば話は別だが、そんなことを言う人の映画評などアテにはできないので、つまりは傑作であるならなおさら、一般人に届くべく、策略を巡らせなければ賞賛した者の責任を果たしているとは言えないのではないか、と様々な賞賛を読んでいて思った。

この数十年「この自主映画は凄い!」と言われた過去は何度もある。記憶に新しいだけでも「運命じゃないひと」の内田さんや、「サイタマノラッパー」の入江くんなどがいるが、彼らが商業にデビューして、一般人相手にして、日本映画に風穴を空けたかというと、そんなことはない。一生自主映画で商業の流れに乗らずにやっていくという作家ならばいいが、それなりに大きな小屋で上映したいと考えない映画監督はいないだろうから、言うのである。

言うまでもなく、デビューするときのイメージ戦略や、作風、業界の時流、製作会社の思惑、広告などなどがデビュー後の人生に大きな影響を与えるが、自主映画にこそ日本映画の未来があると本気で信じる支援者ならば、自主映画におけるそれらスキームを真剣に構築する必要があると思うのだが、彼らは褒めるだけで実際には(結果的に)なにもしてこなかった。
自主映画出身の監督で力強く成長している人は数多くいるが、それはひとえに本人の努力によるものであって、とんでもない傑作を生み出す才能があったとしても、周囲にそれを活かせるプロデュース能力や興業力が必ずしも伴っていないのは、日本映画の未来と言われる自主映画の不幸であると思う。

非常に冷めた目で見ると、若い自主映画作家への賛辞の多くは、「すばらしい作品に出会えて幸せだ!」という単なる映画ファンのコメントでしかなく、彼らを映画作家として適切な地位に導くための方策に満ちてはいない。自主映画作家でも、ルーカスのように莫大に儲かり、生活できるのならなんの違和感もないが、貧乏して映画を作って、それが優れているから褒められたところで、そんな行為が人生において永続的に続くわけがないのはみんな知っているであって、映画ファン同士がつながるために日本映画を作っているのではないのだから、もっとビジネス的な支援もできないものなのかと思ったりもするのだが、まあ、そういう壮大な愚痴というか嫌悪感というか、まあ要するに(ぼくを含めて)売れてない人々が、これからの若手を褒めそやしたところで、誰が得するんだっつう話。