中野ザ・ポケット「日本の問題」観劇。アンケートに代えて。

「日本の問題」(12/04 13:00-17:00)を観劇。8劇団が独自に切り込んだ「日本の問題」を短編劇にし、オムニバス形式で上演した意欲作であった。

 

思えば「日本の問題」とはなんであろうかと考えたときに、社会的な意味での問題点と、個人的な意味での問題点と、どちらがより作家にとって重要であるかという点は興味深く見守る必要があるだろう。全共闘世代の考える問題と、高校生の考える問題は違うだろうし、主婦の思う問題と、OLの思う問題も違うだろう。それは、どちらが高尚でどちらが低俗かということはなく、どちらも等しく、重要な問題である。ただ、問題を抱える当人の立ち位置が違うだけだ。そして、それを受け取る者(この場合は観客)が共感できるか出来ないか、それだけだ。

つまり「問題」とは、多くの場合、それが認識され、共感されたときにはじめて「問題」となる。一つどうでも良い例を出すと、ぼくはなぜか遅刻癖があるのだが、遅刻をするつもりがなくても遅れてしまうことがよくあるのだ。どういうことかと言うと、定刻通りに電車が出なかったり、事故が起きたり、不慮の事態によってそうなるのだ。それを見越して移動するという簡単なことをしないわけではなく、そうした場合でも、結果的に遅れるということが、あるとき何度も続いた。ぼくにとってそれは大きな問題であったが、遅れられた待ち人の方にしてみれば、問題なのはぼくの時間管理のほうであろう。もっと簡単な例で言えば、花粉症が問題になるのは、花粉が飛ぶ時期に、花粉のアレルギー反応を起こす人間にとってだけである。薄毛の問題も同様だし、視力問題もそうだ。だが、該当しない人にとっては、一生その問題点はわからない。

この例は些末な「問題」だが、これが在日問題だったらどうだろうか。人種だったらどうか。宗教や経済格差だったら? 言うまでもなく、世の中には多種多様の問題が山積している。重要なのは、誰が、その問題を提起し、人々に認識させ、共感させることが出来るか。結局はその点にかかってくるとぼくは思っているのだが、ではその「誰」とはどこのどいつを指すべきなのか。

この公演は、それを劇作家に担わせた。となればあとは、観客が彼らの提起した問題を認識し、共感するか否かだが、それが成功したかどうかの判断を、あるいは失敗したのではないかという判断を、誰ができるのだろうかと首をかしげてしまうのである。

 

そもそも、ぼくがこの日の観劇を選んだのは、8劇団全ての上演を通して観たかったからだが(仕事の都合でこの日しか観られなかったという縁もあるけれど、それでも)その狙いは的を射ていた。Aチームに4劇団、Bチームに4劇団という編成で連日入れ替わり立ち替わり上演をしていて、その運営においても多少の興味を覚えてはいたものの、あえて大上段に「日本の問題」と銘打つからには、8つもの劇団が織り成す芝居のおのおのは勿論のこと、8つを一つの時間軸として観た場合、その一貫性の中になにか演劇的な、それでいて思想的に明確な「問題」が垣間見えるのではないだろうかという期待があった。

しかし、結論から言えば、タイトルより大きな意味はなかった。各論は別として、総論で言えば、この公演において「日本の問題」は、観客の知っている以上のものはなにも提起されなかったし、解決もされなかった(唯一、プロデューサー松枝氏の率いるアロッタファジャイナは「問題解決提案」をしたが、本人も言っておられたように論文的解決法であり、演劇という「言葉と行動」によるアプローチではうまくいっていなかったように思うので、あえてそう言わせてもらう)。

勿論、311を経た今の我が国で、震災の影響を抜きに物語れないのは理解できる。ぼく自身、震災直後は若干の躁状態で、何か出来ることを探して精神の安定を図る毎日であった。その結果、ソースのハッキリした有用な情報を探して伝えるという行為に勤しんでいたのだが、それがどれだけ役に立ったかはわからないし興味もない。ただ、ぼくはぼく自身のために、もっと言えば、ぼく自身の行為が確かに世の中に届くことを確認するために、いくつかの有用な情報を拡散していたに過ぎない。だから、2011年に考えるこの国の問題においては、震災を中心に据えても批判をするに当たらないとぼくは考えてしまう(自省も込めて)。

しかしながら当然「問題」は震災に留まらない。さきほども書いたように、多種多様な問題を過去から現在、そして未来に至るまで抱え込んでどうにもならなくなっているのがこの国である。それに対して各作家が何を思い、何を考え、何を表現し、またそれらがどうまとまって、あるいはまとまらず、化学反応を起こしたり、拒絶し、反発した衝撃の末に光ったスパークから突如生まれ出る新たな「問題」──ぼくはそうした「問題」こそが、演劇的な提起だと思うし、表現でしか発見できない普遍的なテーマに関わると思うのだ。ところが、8つの劇が集合して見いだされたものは結局のところ「多様性」という一言で片付けられるような、表面的な問題でしかなかった。そしてその「多様性」の指し示すものは何かと言えば、絶対的正義の欠如である。それが、成否の判断をする者がいない、とぼくが首をかしげる理由であるが、むろん、それが悪いと言うことではない。ただ、ぼくにとっては残念だったということだ。

と言いつつも、そんな残念などは、ぼく個人の勝手な思い込みや期待感に裏打ちされたものであり、言うなればぼくの感性の問題なので、それによって公演を失敗と断ずるつもりは毛頭ない。テーマの話を別にすれば、演劇としてはこの公演は興味深く、面白く感じられたことは間違いないのだ。気になる役者も多くいたし、気になる演出家、劇作家も発見できたことだし、一演劇ファンからしてみれば、収穫の多い公演であったことは明記しておかねばなるまい。特に記しておくなら、劇作家としては「ろりえ」の奥山氏は人間的にもセンス的にも怪物の可能性を秘めているし、「Mrs.Fiction」に出演した山口オン、「アロッタファジャイナ」出演の西村優奈、「JACROW」出演の藤沢玲花などの女優陣は個人的に、将来の映像作品に起用したいと思えるほど面白い人材であったと思う。だがそういった評価は別にして、あえて大上段に構えたこのタイトルとテーマを考えずに、この公演を消化することはぼくにはできないのだ。