ジョシュア・ベルの考察:美しさについて

ジョシュア・ベルというバイオリニストの話が出回っていて読んでみたのだけれど、美しさというものは、その大部分は美しさを感じられる空間と状況によってのみ認識されるのであって、どのような状況でも美しさをそれを認識できる人というのは、はっきりいってどこかおかしい。

 

ちゃんとした劇場で、ちゃんとした音響システムを使った演奏を一枚一万円のチケットに換算することは妥当だが、喧噪の駅で音楽に興味のない人々を相手に演奏してもその価値は一万円には及ばない。なぜならそこは音楽とは関係のない場所だから。

 

これを映画に置き換えてみよう。

映画は映画館で観るから1800円というチケット代をいただける。

DVDは映画のコピーに過ぎないし、創作者が望む映画の価値をキチンと表現できていない。ブルーレイにしたって同様だ。映画は映画館で観るからこそ、意味がある。

知る人ぞ知る世界の名作映画だからといっても、立ち飲み屋でプロジェクター上映したものを誰が「傑作だ」と思うだろうか。

いや、傑作ではいけないのである。

勿論映画に携わる人間であれば、その上映を観てピンと来るものがあるかもしれない。

それは、デザイナーが、街中にそれとなく紛れ込んだ秀逸な意匠を発見して興奮するのと同じだ。

場末の立ち飲み屋で、ひっそりと最高級フォアグラの焼き串を出したとして、料理人以外にその価値に気付く人などほとんどいないだろう。

 

我々は美しいモノを見逃しているが、そんなことは当然である。

 

では聞くが、世の中に存在する美人のすべてを、見届けることができるのか。

無理だ。

美人の価値観は人それぞれ違う。

 

美しさは、万人に共通ではないのだ。

 

だが重要なことは、美しいモノは、確かに存在していて、誰かに発見されるのを待っているということだ。

逆に言うと、発見されるまで、それは「美」ではない。

「美」とは、鑑賞者がいて初めて成立する。

 

いかに世界最高の才能の演奏であろうと、それがそうと認識されなければ、美しくないのだ。