鵺的「昆虫系」を観劇。アンケートの代わりに。

鵺的「昆虫系」(7/31 15:00)を観劇。そのときぼくは、連続的な破滅を目撃した。

順を追って話そう。

通常、物語は破滅に至る前に幸福があったり、人が死ぬ前に過去が語られたりと、いわゆる「起伏」を持っているものだが、「虫けら以下」ばかりの人間模様は、はなから地獄の一歩手前なので、言うなれば物語は、最初から最後まで「緩やかなる終焉」の一コマに過ぎず、登場人物は誰もが不幸で、誰もが低脳で、誰もが責任を取らず、誰もが無関心である。まともな人間であれば、どこかに逃げて暮らすであろうが、それすら諦めていることを見れば、彼らが生きることに何の希望も見いだせていないことは自明の理で、ただ惰性のまま蠢く様は、確かに虫けらにも劣ると言える。思考が停止した彼らにできることは、再び、あのスナックに集う以外にない。それはまるで、帰巣本能に似ている。

 

命以外に持てるモノのない人間が行き着く先は、どう足掻いても修羅の道であって、唯一のよりどころである「金」もまた、実のところ何の救いにもなっていないのが、作家的な視点という風に思われたが、残った二人の行く末がハッピーなのかバッドなのか、それは見る者によって意見の分かれるところであろう。最後、あの青年の高らかな笑いは、解放感すら感じるが、かといってそのまま暢気に暮らしていけると考えるほどお気楽でもない雰囲気が漂っているのは、「場」の持つ空気ゆえか、それとも芝居のなせる業か、判別はつかない。

もちろん、最後に残ったあの男女の罪は重い。彼らはそれまでずっと、何が起こっているか知りながら、救いもせず、逃げもせず、ただスナックに身を置いて、おそらくは「何か」が起きるのを待っていた。「何か」とは言うまでもなく「決定破滅的瞬間」のことだろうが、いざその結末が訪れてもなお「共犯になるのかなあ」と他人事でいられるのは、一番の人非人、一番の虫けら以下という見方もできる。途中挟まれるナレーションにより、女が生き残ることは予想できたが、行き当たりばったりな行動、無責任な誘惑を思い返せば、人を人と思わぬ底意地の悪さが、そもそもあの女にはあったのだ。

 

つまり傍観者の罪ということをぼくは思った。現代日本には、傍観者に徹する者、傍観者であることを知らぬ者、傍観者であることをやめる者の三種類がいるが、思えば観客という「傍観者」は、あの舞台上で繰り広げられた破滅的人間模様を目撃して、いったい何を考えただろうか。あの狭いスナックは、この狭い日本列島かもしれない。してみると金の亡者である社長と保険屋も、見て見ぬふりの女たちも、死を待つだけの男たちも…そして、突如キレたあの青年も、誰もがこの国に存在する「誰か」を象徴している。作者の高木さんの描く物語が力強いのは、現実から寓話を捻り出すからだ。むろん、その力強さは脚本だけの功ではなく、演出と芝居による先鋭化による貢献も大きい。たとえば芝居をしている役者側をあえてを暗くしておきながら、聞いているほかの人間には明かりが当たっている演出や、聞こえるか聞こえないかギリギリの声量を徹底するあたりは、単なる「リアル」という言葉では片付けられない創意であるし、アフタートークで演出の寺十さんが語った「(裏の芝居は)役者がおのおの勝手に考えて演じた」という言葉(意訳)を信じれば、彼らはあのスナックに存在する理由を明確に掴んでおり、それゆえに何もない中で芝居を形成できたのだろう。「ただ話を聞いているだけの芝居」は難しい。今回はさらに照明が当たってくるのだから、なおさら難しい。しかしそれを成功させてこそ、無関心で見て見ぬふりを続ける罪深き破滅者たちの構造が浮き立ち、この国の向かおうとしている結末が、ホンノリと見え隠れしてくるのである。