ミニシアターとはどうあるべきなのか?

2011/02/11に、日経トレンディにこのような記事が出た。

http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20110207/1034423/?rss

昔と比べると、若者がミニシアターから離れている傾向もあるという。

「少子化などもあり原因は一概には言えませんが、若いお客さんはたしかに減っていると思います。90年代までのミニシアター文化は若い人が引っ張っていました。大学生から20代後半くらいまでの方です。その方々が現在40代になって、映画を観なくなっている傾向はあると思います」

 

 

それに対して、ぼくはこのような意見をfeedした。

渋谷のミニシアターが廃れていったのは、映画がファッションとして機能しなくなっているからだと思う。

映画は娯楽であり、芸術なのであって、娯楽や芸術を嗜む者(=観客)はそれ相応の「場」を求める。逆に言うと、それ相応の「場」がなければ、娯楽も芸術も育たない。

本来であれば、上映する映画館によって、映画の色味や音響を変えていくのが、創り手の良心だと思うが、興行するためにフィルムの統一を図り、音響システムの統一も図った。しかしデジタルになり、いっこうに統一されない規格に左右されているぼくたち創り手が、映画館のため、観客のために、最適な上映環境を設定することは事実上不可能となっている。そしてハッキリ言って渋谷のミニシアターの上映環境は全然良くない。最初から決まっていれば調整も出来るだろうが、納品したあとで配給されるシステムでは、意図した色味も出せないし、音も妥協する結果となる。

単館公開から始めていくのであれば、そういった「上映の最適化」を最初から企画として折り込み、一丸となって取り組むのも手だと思うし、そうして欲しいと思う。

どこで上映するかわからないから、とりあえず標準的な仕上がりをする、というのは創り手として忸怩たる思いがあるし、それを強いられるのは、正直悔しい。映画は映像と音響表現なのだから、そこにこだわりと投入できないのは、かなりもったいない。

映画館はアウトプッターとして、その役目を果たして欲しいと思うし、映画館スタッフのみならず配給会社の人間もそのあたりから考え直さないといけなくなっていると感じている。勿論、少なくともぼくは、そうした細かい作業に全て応じる覚悟があるし、多くの創り手がそうだと思う。

 

 

ルーブル美術館に世界最高峰の美術品が集まるのは、ルーブルがそれに見合う「場所」だからだ。ステイタスという意味でのプライドもさることながら、最高の環境で「芸術に親しめ」る上に、最高の状態で「芸術を提供」できることも重要なことだ。

東京にも、そうしたミニシアターはある。けれど残念ながら、予算や機材の関係もあり、意図した最良の状態で作品提供できているとは言い難い場所もある。観客にとってはわからない細部かも知れないが、創り手や配給元がそこを捨てて良いわけはない。

わざわざ「ミニシアター」と名乗るのなら、創り手にとっても観客にとっても最高の状態で映画を提供する場でなくてはならないと思うが、現在閉館の相次ぐ渋谷系ミニシアターの多くは(少なくともぼくには)、単なるファッションにしか思えなかった。つまり「オシャレな映画をオシャレな街で上映」しているだけのことであった。

映画は、服やアクセサリーのような、消耗品ではない。創り手の多くは後世に残る作品を生み出すために努力している。結果的に駄作になることはあるが、消耗されるためにこんな(馬鹿げた)行為に命は賭けられない。